時枝城城址碑
大友氏家臣時枝氏の城、毛利氏に就いた後、黒田氏の家臣となり福岡へ移った
所在地
大分県宇佐市下時枝
【アクセス】
糸口小学校の西側を通る道を北上し、すぐの信号(県道629号線と交わる交差点)の手前右手の空地(駐車場?)城趾碑があります。この周辺が城跡です。
糸口小学校:宇佐市大字上時枝600−1、電話0978-32-0274
形状
平城
現状・遺構等
【現状】 市街地
【遺構等】 石碑のみ
満足度
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訪城日
2013/11/28
歴史等
応永年間(1400年頃)、大内氏が宇佐神宮に寄進した1千6百町のうち、1千町を益永肥前が、6百町を山下玄蕃が支配していたが、やがて玄蕃は人望を失い追放となり、その後に山城国慶安寺の子惟光が宇佐八幡神宮寺の弥勒寺寺務役として下領地猿渡(当時上下時枝を含む)及び鬼木村(現豊前市内)を与えられ下時枝森田の地に築城し、時枝氏を名乗るようになった。
弘治2年(1556)大友義鎮に降り、家臣となった時枝平鎮継であったが、毛利氏と通じ、大友方の赤尾氏が寄る光岡城を攻め落とすなど、反大友の姿勢を明らかにした。
しかし周囲は大友方が多く周囲の諸勢力から孤立化することを恐れた鎮継は、小早川隆景に出兵を要請した。天正13年(1585)、隆景はこれを受けて250騎を派遣し、時枝城に入った。しかし高家城の中島統次の夜襲によって城を落とされ、鎮継は周防の小早川氏を頼って落ち延びていった。
同15年(1587)豊臣秀吉の九州征伐後、黒田官兵衛孝高が豊前国の内6郡12万3千石を領し中津城主となると、鎮継は黒田軍に加わって戦い、戦功を認められ家臣に加えられた。
慶長5年(1600)黒田氏は福岡へ転封となったので、鎮継も城を廃し福岡に移った。
『「現地城址碑裏の解説」、「日本城郭大系16」ほか参照』
現況・登城記・感想等
時枝城跡は、市街に埋もれてしまい、今では空き地の隅に立派な「時枝城趾」の石碑が建てられているだけです。
(2013/11/28訪れて)