筑前 福岡城(福岡市)

大手門手前の堀越しに潮見櫓を

黒田長政が築城、黒田家12代270年の本拠

別名

舞鶴城

所在地

福岡県福岡市中央区城内、舞鶴公園

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 舞鶴公園
【遺構等】 大・中・小の天守台、多聞櫓、潮見櫓、祈念櫓、名島城の城門、母里太兵衛の屋敷の長屋門、本丸表門(福岡市内の崇福寺山門として移築)、石垣、堀、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2003/04/22

歴史等

福岡城は、黒田如水・長政父子により朝鮮の晋州城(慶尚南道、釜山の西南約135km)を頭に描いて造られたと云われる。
朝鮮の役で秀吉軍は、晋州城を7万の大軍で攻めた。この時、長政も宇喜多隊2万の一翼として加わったが、周囲わずか1.7kmでしかないこの城砦をなかなか落とせなかった。結局、悪戦苦闘のすえ落城させはしたが、この時の経験が長政に強烈な印象を残すことになった。
長政は関ヶ原の戦後に豊前中津城主から筑前52万石の太守となった。最初は、小早川隆景が本拠としていた名島城(福岡市東区)を使用していた。しかし名島城は堅固な城ではあったが、筑前の中心として城下を発展させるためには後背地も乏しく、また城域も手狭であったため、新城を築くことになった。そして慶長6年(1601)から7年がかりで築いたのが福岡城である。
福岡の名は、黒田氏の祖先が備前邑久軍福岡に住んでいたので、そこからとったのだという。
城の広さは約8万坪で、本丸・二の丸・三の丸から成り、天守建築はなかった。大壕をめぐらし、祈念・月見・潮見など大小47の櫓を連ね、10数ヶ所に門を構えた。そして福岡城、は黒田氏12代270年で明治を迎える。『参考:日本100の城(日本交通公社刊)』

【福岡城の天守の存在について】
幕府への遠慮から天守台は築かれたものの天守は造築されなかったと従来は思われていた。
正保3年(1646)に作成された福岡城を描いた最古の絵図『福博惣絵図』には天守は存在していないため、天守はなかったと言うのが通説となっていた。
しかし、近年、「長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」と書かれてある、元和6年(1620)に豊前小倉城主・細川忠興が嫡子忠利に宛てた天守の存在を伺わせる書状が発見された。この頃、大坂の役が終わり江戸期大坂城が築城の最中にあった。天下普請であり、諸大名が築城に駆り出された。黒田氏も例外ではなく、特に豊臣氏恩顧の大名である為に幕府の監視の目が強かった。故に、天守を解体し大坂城築城の資材に回し、幕府の信任を得ようとしたと言う説も浮上している。

現況・登城記・感想等

さすが黒田如水・長政の築城したお城である。規模も大きく、また何といっても立派な石垣や堀は見応えがある。天守閣は建てられなかったとはいうものの(異説もあるらしい)、大きくて立派な天守台が残っている。ここからは福岡市内が見渡せる。
また、建造物としても、多聞櫓・潮見櫓・祈念櫓や名島城の城門であった名島門や黒田節で有名な母里太兵衛の屋敷の長屋門などが現存或いは移築され残っている。中でも、私は堀の手前から見る潮見櫓が好きだ。他にも、黒田家の菩提寺・崇福寺(福岡市博多区千代4-7)には本丸表門であった山門や、名島城の城門(唐門)が移築されているそうである。
また、月見櫓・花見櫓も同様に崇福寺に移築されていたそうであるが、現在は福岡市が買い戻し、将来は福岡城内に移築の予定とのことで部材が市で保管されているとのことである。早く城内に移築復元して欲しいものである。
(2003/04/22登城して)

ギャラリー

福岡城内図 ~クリックで拡大~
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潮見櫓

黒田節で有名な母里太兵衛の屋敷の長屋門

名島城の城門(移築)

多聞櫓(現存)

天守台への登城道

天守台
 

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天守台穴蔵と礎石 
img_20070

天守台上からの眺望

埋門跡

祈念櫓(現存)

満々と水を湛えた堀

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