中津城復元天守
黒田官兵衛が築いた日本三大水城の一つ
別名
扇城(せんじょう)
所在地
大分県中津市二ノ丁、中津城公園
所要時間
天守内(資料館)見学も含め、今回の見学時間は1時間10分でした。
形状
平城(水城)
現状・遺構等
【現状】 中津城公園
【遺構等】 模擬天守、模擬櫓、曲輪、石垣、水堀、説明板、遺構説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2013/11/28
歴史等
天正15年(1587)豊臣秀吉の九州征伐の戦功により黒田官兵衛孝高(如水)が豊前16万石を領して入国し、翌天正16年から中津城築城に着手した。
この時、黒田氏の入国を喜ばない城井谷城主・宇都宮(城井)鎮房や長岩城主・野仲鎮兼らの反乱があり、黒田官兵衛・長政父子は日隈城を手始めに、川底城・池永城・福島城・犬丸城・大畑城を攻略し、野仲氏の籠もる長岩城の堅城をも落とした。一方、宇都宮氏とは豊前の地で死闘を繰り返し、黒岩山合戦(峯合戦)では大敗した。そこで、官兵衛は所領安堵を条件に和睦し、その後、中津城内にて鎮房を謀殺した。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の戦功で黒田孝高・長政父子は筑前52万3千石を領して筑前福岡へ移り、中津には丹後田辺から細川忠興が豊前一国と豊後二郡32万石で入封した。
細川忠興は中津城は領国支配に不便なため、慶長7年(1602)から豊前小倉城を築城して移り、嫡男・忠利を中津城に置いたが、その後、忠興は隠居して三斉と号し、忠利に家督を継がせ、忠利と交代して自らは中津城を隠居城とした。
寛永9年(1632)肥後熊本城主・加藤忠広(加藤清正の子)が改易となり、忠利が肥後熊本へ転封となったのに伴い、忠興も肥後八代城に移った。
同年、細川氏に替わって播州龍野より小笠原長次が8万石で中津城主となるが、享保2年(1717)小笠原氏5代・長邑が9歳で没し断絶となった。
その後、丹後宮津から奥平昌成が10万石で入封し、以後奥平氏が9代居城して明治を迎えた。
廃藩置県の際には、藩士福沢諭吉の進言により城内のほとんどの建造物が破却され、御殿だけが小倉県中津支庁舎として存続する事になったが、明治10年(1877)西南戦争の際に、その御殿も焼失した。
『「現地案内板」、「日本城郭大系16」、「中津城公式ホ-ムページ」ほか参照』
現況・登城記・感想等
中津城は、現在中津公園となり、模擬五層天守と隅櫓が建てられ、天守内は資料館となっている。
中津城は、堀に海水が引き込まれた水城で、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられる。
縄張りは、本丸を中心とし、北西側は高瀬川(現中津川)が流れ、東から北にかけて二の丸、南に三ノ丸があり、全体ではほぼ直角三角形をなしていたため「扇城(せんじょう)」とも呼ばれていた。
尚、天守の存在については、諸説あるが不明のようである。
本丸北面には、黒田如水が築いた石垣と後に細川忠興が拡張した際に築 いた石垣の両方が見られ、なかなか興味深い。
また、本丸南の堀と石垣は修復・復元中であったが、ここにも黒田・細川時代の石垣改修の跡を見ることができる。
中津城は黒田官兵衛の築いた城でもあり以前から興味はあったが、それと同時に、所詮、単に模擬天守の建つ城だろうとそれほど期待もしていなかった。しかし、想像していたよりもずっと見どころの多い城でした。
(2013/11/28登城して)
ギャラリー
中津城縄張略図(現地案内板より)
中津城の縄張りは、本丸を中心とし、北西側は高瀬川(現中津川)が流れ、東から北にかけて二の丸、南に三ノ丸があり、全体ではほぼ直角三角形をなしていたため「扇城(せんじょう)」とも呼ばれていた。
大手門跡
三の丸の東端に位置する大手門は「馬出無しの枡形虎口」であったが、この枡形虎口は奥行き約23m、幅約6mもある大規模なもので、約30騎(供武者60人含む)、徒士武者であれば約250人が収容できたという。
現在は、三の丸も含め大手門周辺は、大部分が市街地化しており一部石垣のみが残されています。
大手門幕末の絵図(現地説明板より)
城内へは、町屋側から堀を渡り、大手門⇒黒門⇒椎木門⇒本丸へと続くもので、幕末絵図には大手門の枡形虎口がrが枯れているが、現在は「城四角部分」の石垣(上写真)のみが現存しています。
黒門跡
黒門は、石垣や堀も含め、全く残っていません。
椎木門跡(城外側から撮影)
本丸南東隅に位置する鳥居がある入口は「椎木門跡」で、入って西側(写真奥)は塀で塞がれ、北側(写真虎口を入って右側)に折れてくぐるという枡形虎口の構造でした。
扇形石垣跡
椎木門を北へ折れてくぐろと、扇形に弧を描く石垣があり、虎口が2つあった。石垣の多くは壊されているが、虎口の1つが残っている。尚、虎口の左側の塔は、当地出身の福沢諭吉が唱えた言葉「独立自尊の碑」です。
本丸跡
本丸南面の土塁上から撮ったもので、中欧やや左奥に模擬天守が見えます。右側の土塁が凹んだ場所は栗木門跡です。
模擬天守と奥平神社
本丸上段の北東隅櫓跡(薬研堀端)には模擬天守が建てられ、その左手前には藩主奥平家の中興の祖貞能・信昌・家昌が祀られた奥平神社が鎮座しています。
模擬天守は、昭和39年(1964)観光開発を目的に建てられたもので、鉄筋コンクリート構造で、外観は萩城天守をモデルとして外壁仕上げは下見板張りを模し、5層5階構造で高さは23メートルあります。また、かつて南東隅櫓があった場所(写真右手前)には模擬天守南に望楼型の二重櫓も建てられています。尚、天守の存在については、諸説あるが不明のようです。
模擬天守上から二の丸跡と高瀬川を
模擬天守の最上階から撮った水堀代わりの高瀬川(現中津川)と本丸北側の二の丸跡です。
城井神社
本丸北西部に宇都宮(城井)鎮房を祀る城井神社があります。城井谷城主宇都宮(城井)家は、16代約400年間、豊前国守として徳政を布いた。秀吉は九州征伐後、鎮房に伊予今治12万石移封を命じた。しかし、鎮房は累代墳墓の地の豊前の地の安堵を願い、この朱印状を返上したため宇都宮一族は黒田官兵衛・長政父子と豊前の地で死闘を繰り返すこととなり、黒岩山合戦(峯合戦)では長政は大敗した。そこで、秀吉と官兵衛は所領安堵を条件に和睦し、その後、中津城内にて鎮房を謀殺した。天正19年(1591)、長政は感ずる処があり、「城内守護紀府(城井)大明神」として鎮房を祀った。その後、幾度かの変遷の後、城井神社として改められた。
水御門跡
本丸南西隅には、水御門の石垣が残っています。
本丸南面の土塁(石塁)
本丸南の堀と石垣は、中津市によって修復、復元されている。
本丸南面の水堀と石垣(東側)
本丸南面の東側の石垣の下半分は黒田氏時代の石垣です。
本丸南面の水堀と石垣(西側)
本丸南面の西側の石垣は黒田氏時代の穴太積み石垣です。中津城の石垣は、築城当時は今より低く、幅も狭いものでしたが、時代を経て増築されていきました。石垣の増築が城内側であったため、堀に面した石垣は昔のままの姿を見ることができます。
尚、現在、本丸南面の堀と石垣は、その間を道が通り東西に分断されているが、この道は明治期に石垣を壊して通されたもので、元々は東西の堀と石垣は続いていました。
本丸南面西側の土塁の断面
本丸南面西側の土塁の東端の断面には、城内側の古い石垣が顔をのぞかせ、増築された様子が分かります。
本丸東側の二の丸から見る模擬天守と模擬二重櫓と内堀
本丸北東部の二の丸から見る模擬天守と模擬二重櫓
黒田氏時代の石垣と細川時代の石垣の対比
本丸北面には、黒田如水が築いた石垣と後に細川忠興が拡張した際に築 いた石垣の両方が見られ、なかなか興味深い。
写真のように、石垣にはy字型の目地が通りますが、右側が黒田氏時代の石垣で、その上に積まれた左側の石垣が細川氏時代のものです。
黒田氏時代の石垣は、四角に加工された石が使用されていますが、黒田氏が中津城を築城を始めた天正16年(1588)当時は、石垣は未加工の自然石を用いていましたが、ここではほとんどが四角に加工された石で築かれています。これは、高瀬川上流の福岡県上毛町にある「唐原山城(唐原神籠石)」から持ち出された石で、ここ以外に川沿い(本丸西側)の石垣に多く用いられています。
川沿い(本丸西側)の石垣①
上写真でも紹介したように、高瀬川(現中津川)沿いの石垣には「唐原山城(唐原神籠石)」から持ち出された四角く加工された石が多用されています。
川沿い(本丸西側)の石垣②
川沿いの石垣の中で、写真中央部の凹んだ部分の石垣だけが、当時、一般的に用いられていた未加工の自然石で築かれています。
尚、黄色の点線で囲んだ部分は、現在は石でふさがれていますが鉄門跡です。鉄門は、トンネル状になっており、門の中の階段を登ると本丸内に通じていました。
中津城に残る黒田氏時代の石垣(現地案内板より)
以上、中津城の石垣について幾つか紹介しましたが、現在、残る黒田氏時代の石垣は下写真のとおりです。