天守台石垣
生駒親正が築城した水城、日本三大水城の一つ
別名
玉藻城
所在地
香川県高松市玉藻町
形状
平城(水城)
現状・遺構等
現状:玉藻公園、市街地
遺構等:天守台(登城時には玉藻廟が建っていた)、石垣(本丸・二の丸・新曲輪・三の丸・桜の馬場)、内堀、中堀、廊下橋・鞘橋(現存)、
新曲輪跡に着見櫓(現存)・続櫓(現存)・水の手御門(現存)・渡櫓(現存)、太鼓櫓跡に艮櫓(移築)、太鼓門(移築)、旭橋(再建)
満足度
★★★★☆
訪城日
2002/04/19
2004/05/24
2007/04/30
歴史等
高松城は、またの名を玉藻城と呼ばれているが、その由来は万葉集で柿本人麿が讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことに因んで、
このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによると云われている。
この城は、天正15年(1587)に豊臣秀吉から讃岐17万6千石を与えられ、国主として入府した生駒親正が、天正16年(1588)
から香東郡野原庄(篦原)と呼ばれていた現在地に築城を着手した平城(水城)である。縄張りは、当時築城の権威であった黒田孝高(如水)
とも細川忠興とも云われている。数年の歳月を費やして完成し、高松城と名付けた。瀬戸内の海水を外堀・中堀・内堀に引き込んだこの城は、
「日本三大水城」のひとつと呼ばれている。
生駒氏の治世は4代54年間続いたが、寛永17年(1640)に「生駒騒動」により、讃岐国を召し上げられ、出羽矢島1万石に移された。
このあと、寛永19年(1642)に常陸下館藩主・
松平頼重(水戸光圀の兄)が東讃岐12万石の城主として入城した。将軍家と近親にあった頼重は、中国・
四国の監察役を命じられていたと云われている。頼重以降、松平氏が11代228年間居城し明治を迎えた。
城は、明治2年(1869)の版籍奉還により、廃城となった。現在の玉藻公園の面積(約2万4千坪)は往時の城域(約20万坪)
の8分の1程度である。
『パンフレットより』
【日本三大水城】高松城、今治城
(愛媛県今治市)、中津城(大分県中津市)
現況・登城記・感想等
高松城はJR高松駅からすぐ近くで、高松港、琴電高松築港駅のすぐ隣にある。今では、玉藻公園として綺麗に整備されており、
しかも思っていたよりも遺構が沢山残っている。
入城は廉櫓跡から入城する西入口と旭橋を渡って旭門から入城する東入口(大手口)がある。
西入口から入城すると、そこは二の丸跡である。二の丸の右方向には屋根の付いた鞘橋があり、内堀に囲まれた島(正確には半島)
に渡ることが出来る。その小さな島の一段高い所に天守閣跡があり、松平頼重を祀っていた玉藻廟が建てられている。天守台上からは、内堀・
水門越しに瀬戸内海と島々がすぐ近くに見える。
内堀には海水が引き入れられ、水門により潮の干満の水位調節がされている。内堀にはボラなどの海の魚が泳いでいるのがよく見える。
二の丸から内苑の方へ出て、内堀沿いに行くと、内堀の中に天守台の高石垣が見える。反りはなだらかで綺麗な曲線を描いているものの、
算木積みの石を除く個々の石があまり大きくなく、天守の代わりに、ぽつんと小さな廟が建っているせいか、表現が難しいが、
私には妙にユニークな感じがした。
内苑は藩政時代の庭をもとに大正時代に造られた枯山水の庭できれいだ。石垣がかっこいい桜御門跡を出ると、桜の馬場で、さらにその奥には、
太鼓櫓跡に実に形の良い艮櫓(うしとらやぐら)が移築されている。その横には旭門、旭橋があり東入口になっている。また、内苑の北の方には、
月見櫓(着見櫓ともいう)・水手御門・渡櫓が現存している。
【讃岐うどん】
高松へは3度ほど行き、いつも讃岐うどんを食べ、どの店もさすがに美味いと思っていたが、今回、JR駅前のとある店で食べたが、
これが何とも不味い!!高松にも、こんなうどん屋さんもあるんだと、変な意味で感心した。
(2004/05/24)
ギャラリー
㊧鞘橋と天守台、㊨天守台から鞘橋と二の丸跡
天守台から内堀・水門越しに瀬戸内海方面
天守台から月見櫓を
内堀に泳ぐ海の魚
太鼓櫓跡に移築されている形の良い艮櫓(うしとらやぐら)
月見櫓(着見櫓ともいう)
往時はこの着見櫓が海に面していたそうで、舟が発着していたそうで、
横にある水手御門が海の玄関口であったそうである。
月見櫓・水手御門・渡櫓
桜御門跡
実に綺麗な石垣であるが、昭和20年の高松空襲に遭い、焼けた跡が見られる。
披雲閣
藩政時代にも、ここに披雲閣という広大な建物(現在の約2倍)があったが、明治5年(1872)
の老朽化により取り壊され、その後、大正6年(1917)現在の披閣雲が完成した。
内苑御庭
藩政時代の庭をもとに、大正5年(1916)
頃さく作庭された枯山水の庭