北麓から望む龍王山
宇佐神宮の大宮司安心院氏が築いた豊前と豊後の境にある山城
別名
神楽岳城、臥牛城
所在地
大分県宇佐市安心院町龍王字古城
【アクセス】
宇佐別府道路「安心院IC」を下り、料金所を出て左折し、県道42号線に入ります。1.6Km先が宇佐市役所安心院支所前の信号で、ここを左折し国道500号線に入ります。400m先で右折し、県道50号線に入ります。正面に見える山が竜王山です。県道は1.6Km先で川を渡り、大きく左にカーブしますが、カーブ後すぐに右折し路地に入り山に向かいます。250m進むと左手に大手門跡の石垣と説明板があります。ここからさらに100m進むと二股道で、斜め左手の山道に入り中腹の神社まで登ります。登り切ったところが登城口で駐車場が完備してます。
形状
山城(標高315.4m、比高215m)
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、石垣、碑、説明板
満足度
?????
訪城日
2013/11/28
歴史等
正安年間(1299~1302)に宇佐神宮の大宮司公泰が安心院荘16ヶ村の地頭を兼ねて入村し、安心院と称し、山上に城を築き神楽岳城と名付けた。
建武3年(延元元年、1336)に豊前守護の宇都宮冬綱が属城とし、その子の親綱に守らせて龍王城と改称した。
戦国時代の弘治2年(1556)には大友義鎮(宗麟)が大軍を率いて攻め龍王城を落とし、安心院氏は大友氏に属することになった。そして、以後、龍王城は大友氏の豊前制圧の拠点となった。
天正6年(1578)大友氏が島津氏との日向耳川の合戦で大敗すると、大友氏から離反する豪族が増えた。
天正10年(1582)安心院麟生もこの城に籠城し大友氏に叛いたが、大友氏に敗れ安心院氏は滅んだ。
天正14年(1586)島津氏が豊後に侵入すると、大友義統は龍王城に逃げ込み、豊臣秀吉に助けを求めた。九州を平定した秀吉は豊前6郡を黒田孝高に与えたが、龍王城は大友氏の属城であった。
しかし、文禄2年(1593)大友氏が改易され、城は廃城となった。
慶長5年(1600)細川 忠興が中津城に入り、慶長8年(1603)に忠興の弟幸隆が1万石を与えられ、龍王城に入り、改修した。
幸隆は慶長12年(1607)に亡くなり、以後、長岡好重・重政父子が城代となっていたが、元和元年(1615)の一国一城令で山城の龍王城は廃城となった。
その後、寛永9年(1632)に、摂津三田から松平重直が3万7千石で入部し、龍王城西側山麓に居館を構えたが、寛永16年(1639)豊後高田城に移り、後に島原領となった。
『日本城郭大系16ほか参照』
現況・登城記・感想等
龍王城が築かれている龍王山からは、北に安心院盆地を、南は深見の谷を見下ろし、深見川が山の北・東・南を迂回するように流れ、南西は山並みに続いており、山城としての絶好の条件を備えている。
山麓から見上げる龍王山は存在感があります。
山の西麓には、今も大手門石垣が残り、その向こうには近世に入って細川氏が再普請した城下町の町並みが面影を残し、あちこちに石垣遺構が残っています。そして、町の東端にある細川氏の菩提所妙庵寺には龍王城主細川幸隆の廟所があります。
山上の城跡へは、山腹の神社まで車で登り、そこから登って行くことになります。今回、その登城口まで行ったのですが、夕刻近くになり山中は少し薄暗く、また当日は大分市内で旧友と会う約束もあったので登城を断念しました(/。ヽ)。機会があれば、リベンジしたい山城の一つです。
(2013/11/28)
ギャラリー
西麓に残る大手門跡へ延びる道
この登城道を登り、大手門跡を行くと、城下町の面影を残す集落へ出ます。
大手門石垣①
大手門石垣②
城下町
龍王城山麓には細川氏が再普請した城下町の町並みが面影を残し、あちこちに石垣遺構が残っています。
城下町に残る石垣遺構
細川幸隆の廟所
集落(城下町)の東端にある細川氏の菩提所妙庵寺には龍王城主細川幸隆の廟所があります。
山腹の登城口
龍王城への登城には、山腹に祀られた神社のすぐ下まで車で登って行くことができます。時間を見ると、PM3時をとっくに過ぎていました。登城するか否か迷いましたが、最も日が暮れるのが早い季節でもあり、断念することにしました(/。ヽ)。
山腹の駐車場から北麓の安心院盆地を見下ろす
空はまだ明るいのですが、山中はもう薄暗いのです(/。ヽ)。