佐土原城登城道の切通し(堀底道)
伊東48城の中でも中心的な城の一つ、その後、島津氏が入城
読み方
さどわらじょう
別名
鶴松城、田島之城
所在地
宮崎県宮崎市佐土原町上田島
【アクセス】
佐土原歴史資料館の西に見える山が城跡で、資料館の南西の復元御殿「鶴松館」の裏(北西側)の道を南西へ進むと登城口へ。資料館にも鶴松館にも駐車場が完備しています。
佐土原歴史資料館:佐土原町上田島8202-1、0985-74-1518
所要時間
山麓の鶴松館(駐車場有り)から17~18分、今回の所要時間は50分でした。
形状
山城
現状・遺構等
【現状】 城址公園(山林)
【遺構等】 復元御殿、曲輪、土塁、空堀、堀切、井戸、天守台、石積み、遺構説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2013/11/30
歴史等
佐土原城の築城時期は明確ではないが、15世紀中頃、都於郡城主伊東祐立の二男祐賀が田島伊東氏の名跡を継いで佐土原氏を名乗った頃に築いたと考えられる。
城が本格的に整備されるようになったのは戦国期からで、天文5年(1536)には日向一円を制した伊東義祐が還俗して入城し、城の規模も拡大された。
元亀3年(1572)、日向国支配をかけ戦った「木崎原の戦い」で、伊東義祐が島津義久に敗れて豊後に逃れた後、義久の実弟・家久が城主として入った。
天正15年(1587)の豊臣秀吉の九州征伐で島津氏を降して九州諸大名の国割りを行った際にも、佐土原は家久に安堵された。
家久死後、その子・豊久が継いだが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で戦死した。
その後、幕府直轄領となったが、慶長8年(1603)島津以久が入城し、以後、当城は佐土原藩3万石の本城として明治に至った。
尚、2代藩主忠興の時の寛永2年(1625)には山上の城を廃して、山麓に居館・藩庁を移した。
しかし、それらの施設も、明治3年(1870)の広瀬陣屋への転城にともない取り壊された。
『「佐土原歴史資料館・鶴松館パンフレット」、「日本城郭大系16」他参照』
*日本城郭大系では、山麓へ移したのは4代忠高の時の寛永14年となっていますが、現地の本丸跡の説明板や鶴松館のパンフレットでは2代藩主忠興の時となっている。日本城郭大系の発刊は非常に古く、一方、現地案内は新たに事実が確認されたのだろうと考えて現地案内の説を採りました。
現況・登城記・感想等
佐土原城は、3つの峰からなる山に築かれた山城で、一番北側の最も高い峰の頂部に本丸、中央の峰に南城、最も南の峰に松尾丸を置いている。
本丸から北西へ延びる2つの尾根には塁段に腰曲輪が設けられている。また、本丸から北へ突出している場所には天守(櫓)台が残っているが、平成9年の発掘調査で二重もしくは三重の櫓(天守)が備えられ、金箔瓦を使っていたことが明らかになったという。
松尾丸は、本丸や南城とは、かなり離れた場所にあり出城(物見曲輪)的な要素が強いのではないでしょうか。
岩(土かもしれませんが)を削り取ったような荒々しい堀底道(切通し)の登城道は、往時の面影があります。
また、本丸や南城周辺は、比較的整備されているが、松尾丸へ向かう道は整備が滞っており途中で断念せざるを得なかった。
一方、江戸初期になってから築かれた山麓部分の二の丸跡には、御殿(鶴松館)が建てられているが、館の前面にあった堀は埋め立てられてしまっている。
(2013/11/30登城して)
ギャラリー
佐土原城周辺の地形図(鶴松館パンフレットより)
【登城道】
登城口
「鶴松館」の西の山(裏山)が城跡です。復元御殿の裏(北西側)の道を南西へ進むと、左手に登城口があります。登城口から、入城するといきなり堀底道になり、写真正面奥を右折します。
切通し(堀底道)
登城口から入城し、突き当りを右折すると、岩(土かもしれませんが)を削り取ったような荒々しい堀底道(切通し)へ出ます。昼間にも関わらず薄暗いです。往時の面影が残っているような気もしますが、同時に、一人での登城なので少々気味悪いです(^_^;。
土塁上から堀底道を
この道が大手道だったようですが、見事に深く切り込ませた堀底道です。両側上から攻撃されたらたまったものではありません。私も、前からイノシシが現れたらどうしようかと心配しながら登城しました(苦笑)。
堀切
本丸へ向かうと、途中に堀切があり説明板にイラストまで描かれています。
堀切のイラスト
佐土原城跡の遺構説明板には、全てに面白いイラストが描かれていたので、この堀切のイラストだけ紹介します(笑)。
土壇
さらに本丸へ向かって登って行くと、土壇が現れました。この手前に「三重櫓跡・本丸」の案内板があったので、一瞬、これが天守台かと思ってしまいました(苦)。「↑三重櫓跡・本丸、→番屋坂・あずま屋」となっていたので、分岐点であり、何らかの建物が建てられていたのでしょうね。
【本丸周辺】
本丸枡形虎口
城郭のわりに、比較的小規模な枡形虎口です。
本丸
本丸は比較的広く、当城跡で唯一、明るい空が広がります。曲輪内には溝のようなくぼみや僅かに段差が認められるので、幾つかの区画に分けられていたのでしょう。
天守台
本丸から北へ突出している場所には天守(櫓)台が残り、周囲には僅かながら石積みも見られます。平成9年の発掘調査で二重もしくは三重の櫓(天守)が備えられ、金箔瓦を使っていたことが明らかになったそうです。。
【南城】
南城への虎口
南城への虎口を、上から見下ろしたものです。南城へ入る道は、何度も折り曲げられて入るようになっており、虎口も、小規模ながら枡形になっています。
南城
南城は、一部は整備されていますが、多くは雑木林になっており、広さがよくわかりません。
南城
南城には土塁が設けられていたようで、竹藪の中に土塁が残っていました。
抜け穴??
南城を見終え、松尾丸へ向かうと「横穴」がありました。いろんな城にある「秘密の抜け穴」でしょうか(笑)。気味が悪くて、中へ入って行く勇気はありませんでした(;´▽`A``。
【松尾丸へ・・・】
松尾丸への道①
鶴松館に教えてもらったとおり、松尾丸への道は、全く整備が滞っており、ハシゴも朽ちていました。
松尾丸への道②
それでも、何とか意地でも行こうと、朽ちたハシゴや板も何のそのとばかり、執念を燃やしましたが・・・・。
松尾丸は断念(;>_<;)
しかし、竹が行く手を阻んでおり、松尾丸は断念せざるを得ませんでした(;>_<;)。
【山麓(二の丸跡)】
鶴松館
江戸初期になってから築かれた山麓部分の二の丸跡には、大広間、書院、数奇屋の三棟からなる御殿(鶴松館)が復元されています。玄関の唐破風などは、二条城のものを参考としたようです。
水堀跡
鶴松館の前面(写真手前部分)には堀があったようですが、埋め立てられてます。また、その向こうの駐車場から正面奥の2棟が並ぶ建物辺りまでが三の丸であったそうです。