知覧麓の武家屋敷群の石垣と生垣と武家門
重要伝統的建造物群保存地区に選定された佐多島津家の麓(外城)
読み方
ちらんふもと
別名
知覧外城(ちらんとじょう)
所在地
鹿児島県南九州市知覧町郡上郡中
現状・遺構等
【現状】 宅地
【遺構等】 武家屋敷群(武家門、武家住宅、石垣、生垣、庭園)、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2012/11/16
歴史等
現在に残る知覧麓の武家屋敷群は、江戸時代中期、佐多氏18代で知覧領主島津久峰(1732~1772)の時代に形づくられたとされている。
江戸時代、薩摩藩は、元和元年(1615)の一国一城令により、鹿児島城(鶴丸城)以外の城は全て破却し、それに代わるものとして、外城(とじょう)と呼ばれる行政区画(時代により増減があったが、寛永16年には113ヶ所)を設け、「御仮屋」とか「地頭仮屋」といわれる在地役所を中心に、その周囲に犬槙の生垣、石垣造りの郷士屋敷の集落「麓」を形成した。知覧も、その一つである。
ところで、佐多氏初代忠光が地頭として知覧を治めるようになったのは、南北朝時代の文和2年(1353)から始まり、当初はここから約1.5km南西にある知覧城を拠点としていたが、天正19年(1591)11代久慶の時代に、海賊事件により川辺の宮村に転封となった。
佐多氏が復帰する慶長15年(1610)まで種子島氏が知覧を治めた。その間に知覧城は火災にあい焼失したと伝えられる。
復帰した佐多氏12代忠充は、本拠(御仮屋)をここから約1km西にある中郡地区に移した。そしてさらに江戸中期になって18代久峰が現在の上郡地区に御仮屋を移した。つまり佐多氏が最後に形成した武家集落が現在残るこの武家屋敷群である。
また佐多と島津の二つの姓の関係は、佐多氏16代久達(1651~1719)から始まる。もともと佐多氏は島津氏の分家筋に当たり代々薩摩藩の重席にあった。それまでの功績が認められ久達の時代に、知覧領の私領化と島津姓を許され、佐多氏16代以降は地頭職ではなく領主となり佐多姓ではなく島津姓を名乗った。
知覧麓の武家屋敷地区は「門を構え、その奥に主屋を配した武家町の姿をよく今日に伝えている」として昭和56年、出水麓・入来麓とともに国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
『「現地説明板」、「日本城郭大系18」他より』
現況・登城記・感想等
知覧麓は、出水麓ほど広範囲ではないが、山裾に沿った一筋の道(本馬場通り)の両側に武家屋敷群が往時のまま残る。
長~く続く石垣と生垣、そして武家門が建つ光景は風情があり気持ちよく散策できる。道の所々で、少し折れをつくって先まで見通せないようになっているのも城下町らしくていいですよね。
また、武家門の前に目隠しの石垣や枡形などが、やっぱり城を意識しているだと改めて思いますね。
尚、知覧武家屋敷群は、現在、7つの庭園を公開している(有料、大人500円)。
(2012/11/15訪れて)
【知覧についての想い】
知覧といえば、ほとんどの人が「特攻隊」を思い浮べることと思います。
しかし、私にとっては、「知覧」というと、静岡在住時代の上司Sさんを思い出すのです。
Sさんは、まさに仕事一筋の「仕事の鬼」でした。Sさんは、知覧の出身で薩摩なまりが強いこともあったのか、饒舌ではなかったのですが、本当に真面目で、優しい人で尊敬できる上司でした。
そのSさんが、静岡で現職中に胃癌のため亡くなったのです。そういうこともあり、一度は知覧を訪れたいと思っていました。
以来、ほぼ35年目にして、やっと訪れたのです。
知覧麓は、武家屋敷が見事に残り、槇垣と石塀、石垣が続く風情のある落ち着いた町並みでした。Sさんは、こんなところで生まれ育ったのだと思い出しながら知覧麓を散策しました。
ギャラリー
知覧武家屋敷案内図(現地案内板より)
知覧麓は、出水麓ほど広範囲ではないが、山裾に沿った一筋の道(本馬場通り)の両側に武家屋敷群が往時のまま残り、現在、7つの庭園を公開している。(有料、大人500円)。
①西郷氏庭園、②平山氏庭園、③平山氏庭園、④佐多氏庭園、⑤佐多氏庭園、⑥佐多氏庭園、⑦森氏庭園
⑧御仮屋跡、⑬知覧型二ツ家
武家屋敷群の町並み
延々と続く石垣と生垣の光景は風情があり気持ちよく散策できる。
折れのある道
道の所々で、少し折れをつくって先まで見通せないようになっているのも城下町らしくていいですよね。
武家門
武家門も風格があっていいですね。
武家門と枡形
武家門の前に目隠しの石垣や枡形などが、やっぱり城を意識しているだと改めて思いますね。
佐多氏庭園
知覧武家屋敷群は、現在、7つの庭園を公開している(有料、大人500円)。