旧市街背後の丘の上に聳えるハイデルベルク城を臨む
プファルツ継承戦争の傷跡が残る古城
ドイツ語名
Heidelberger Schloss
所在地
バーデン・ヴュルテンベルク州ハイデルベルク(Heidelberg)
訪城日
2010/09/16
歴史等
ハイデルベルク城は、10世紀か11世紀頃に築かれたと考えられるが、史料は何も残っていないそうだ。そして当初はヴォルムスの司教の持ち城であったのを、1225年にプファルツ伯ルートヴィヒ1世が買い取って本拠にした。当初の城は、ごく小さな規模であったが、14世紀から17世紀前半にかけて幾度も増改築がされた結果、ゴシック式、ルネッサンス式、初期バロック式の建築が入り混じる複雑な構成になった。
全ドイツを荒廃に帰せしめた30年戦争(1618~48)が終わったあと、プファルツ選帝侯カール・ルートヴィヒはフランスと結ぶことによって自国の立場を強め、またライン地方の平和をも維持させようとし、娘エリザベート・シャルロッテ(愛称リーゼロッテ)をルイ14世の弟オルレアン公に嫁がせた。その後、選帝侯の息子カール2世が世継ぎを残さないで死ぬと、かねてライン地方を狙っていたルイ14世が弟の姻戚関係から相続権を主張し、大軍を発してプファルツ選帝侯国を攻めた。これが1689年から97年まで続いたプファルツ継承戦争である。
フランスはメラク将軍の指揮のもと、1689年と1693年の2度ハイデルベルクを攻めてきた。特に2度目の1693年の攻撃は、すさまじくハイデルベルクは、灰燼に帰した。
ルイ14世の野望に脅威を感じた列国の力で、結局フランスは撤退したが、次の選帝侯は城を半ば修復したところで、1764年落雷により炎上、ついに完全修復を諦めてライン河畔にあって交通に便利なマインツに宮廷を移してしまった。
『新版ドイツの城と街道・紅山雪夫著(トラベルジャーナル社刊)他参照』
現況・登城記・感想等
ハイデルベルクに着くと、背後の山の中腹に、半ば廃墟と化した褐色のハイデルベルク城址が聳えているのが見える。それは、まるで頭上へのしかかって迫ってくるような迫力があり、存在感充分だ。
ハイデルベルク城は、17世紀末のプファルツ継承戦争でルイ14世のフランス軍により無残に破壊されたあと、一部修復されたものの放棄されてしまった。近世に入り、19世紀末から20世紀初頭にかけて、何度も復元が提案されたという。しかし、十分な資料が残っていないことなどから「復元ではなく保存を」ということになり、城の全面的な復元をせず、現存する建物を保存する形での再建がなされている。
それ故、半ば崩れ落ちたままの廃墟のような姿が、一層ロマンを掻き立て、多くの人を惹きつける。まさに、私が「城大好き人間」になった原点の『滅びの美』だ!
その代表的な光景が、さまざまな時代に築かれた建物がびっしりと周りを囲んでいる中庭と、エリザベート門を入ったところから深い濠越しに眺めるイギリス館や牢獄搭・城門搭などの光景である。また、プファルツ継承戦争時にフランス軍によって破壊されたという部厚い壁の火薬搭も迫力がある。
また、アルタン(テラス)から眼下に見下ろすネッカー川と町の眺望も素晴らしい。
ハイデルベルク城へは、バスとケーブルカーもあるが、本来の登城道である「ブルクヴェーク(Burgweg)」がお薦めなようだ。私は、残念ながらツアー旅行なので、自由が効かずバスで登ったが・・・。この道は往時の唯一の登城道で、頭上に一段また一段と城壁が連なり、高い塔が聳え、途中に幾つも城門があって感興はひとしおだという。まさに山城登城の醍醐味であり、聞いただけでもよだれが出るほど羨ましい(>_<)/
ハイデルベルク城と旧市街とネッカー川、さらには川に架かるアルテ・ブリュッケを同時に眺めることの出来るビューポイントがある。それは、ネッカー川の北側にある哲学者の道と川辺の中間辺りか、或いは川辺からである。その光景を、現地のガイドブックには「この撮影なしにはヨーロッパ旅行は終わらない」とさえ記している。そこまで言うと、ちょっと大袈裟なような気もするが(笑)。
(2010/09/16登城して)
ギャラリー
【ネッカー川北側の哲学の道の近くから】 ~クリックにて拡大画面に~
ネッカー川、それに架かるアルテ・ブリュケ、橋門ブリュッケン・トーア、旧市街アルト・シュタット、そして背後にそびえるハイデルベルク城、それらを同時に眺めることの出来るこのアングルは確かに最高だ。少し大袈裟かもしれないが、現地のガイドブックには「この撮影なしにはヨーロッパ旅行は終わらない」とまで記されている。
【ネッカー川に架かるアルテ・ブリュケからハイデルベルク城を望む】
【橋門ブリュッケン・トーアとハイデルベルク城】
【旧市街地からハイデルベルク城を見上げる】
ハイデルベルクに着くと、旧市街地のいろんな場所から、背後の山の中腹に、半ば廃墟と化した褐色のハイデルベルク城址が聳えているのが見える。それは、まるで頭上へのしかかって迫ってくるような迫力があり、存在感充分だ。
(コルンマルクト広場~Kornmarktplatz~から見上げる)
(カールス広場~Karlsplatz~から見上げる)
コルンマルクト広場より少し東へ行くとカールス広場がある。コルンマルクト広場よりもハイデルベルク城の全体を見ることができる。
【ハイデルベルク城内へ】
橋楼
城門搭前の空濠とゲーテの刻印
橋楼をくぐると空濠があり石橋が架かっているが、昔は、はね橋だったという。右側の橋の欄干の上に一枚のプレート(写真右下)が埋め込まれている。それは、ゲーテが34歳の時、スイス旅行の途中にハイデルベルクへ立ち寄り、この場所から城の右手に見える崩れた塔(火薬塔)の写生をした。プレートはそれを記念して埋め込まれたもので、「An dieser Stelle zeichnete in Jahre 1779 Goethe den ges prengten(1779年にゲーテがここで爆破された搭の絵を描いた)」と刻まれている。尤も、崩れた火薬搭は、当日はなのか今ではなのか、木々に隠れて見えなかったが・・・。
城門搭
城門塔は16世紀の前半にできた。内外二重の空堀で守られ、 今は石橋が架かっているが、もとは二重の空堀どちらにも木造の跳ね橋がかかっていた。度重なる戦争にも耐えて唯一残った塔で、 5層造りで、高さ51m、奥行き13,5mあり、時計がとりつけられているところが、4階である。
㊧鉄格子の落とし戸、㊨魔女の噛み輪
㊧城門には、敵に急襲されたときの用心に、ポルトカリスが備えられていた。 太い鉄格子の落とし戸で、先端が鋭くなっている。いつもは、垂直に搭門の中に引き揚げてあるが、 支えの綱を叩き切ると一瞬にして落下し、門をふさいでしまう。
㊨城門の左側の扉の鉄の輪は、伝えによれば、この門を造った時、あまりの丈夫な門構えに自信を持った当時の王が、「この鉄の輪を噛み切った者がいれば、その者にこの城を明け渡す」と布告をだした。我も我もと大勢の者が試みに来たが、誰一人として噛み切ることはできなかった。最後に魔女の番となりガブッと一噛みして、噛み跡を残したといい、これがその跡だという。
城門搭をくぐって中庭の方面へ向かう
左手前が「ルーブレヒト館」、右側が「兵士棟」、正面奥左側が「フリードリヒ館」、その右が「ガラスの広間棟」。ループレヒト館は、城の最古の住居館で、15世紀の初頭、今から600年前くらいのゴシック様式である。入り口の左側に、建造主であるルプレヒト3世を表す鷲の紋章が残されている
中庭にて
奥へ進み中庭へ出ると、さまざまな時代に築かれた建物がびっしりと周りを囲んでいる。多少、修復されているが、程度の差こそあれ、いずれも半ば崩れ落ちた廃墟のような姿が、ロマンを掻き立てる。左端から、婦人の部屋棟(王の広間)、フリードリヒ館、ガラスの広間棟、右端がオットハインリヒ館。
中庭から逆方向を
左から、一部見えるのエコノミー棟、井戸棟、城門搭、ルーブレヒト館。ルーブレヒト館は当城の最古の住居館で、15世紀の初頭、今から600年前くらいのゴシック様式である。
中庭左(西)側、図書館棟と婦人の部屋棟(王の広間)
左に僅かに見えるのがルーブレヒト館、中央の引っ込んでいるのが図書館棟、右が婦人の部屋棟(王の広間)。婦人の部屋棟(Frauenzimmerbau)は、女官の居室があったことから名付けられた。現在は王の広間(Königssaal)と呼ばれる。婦人部屋棟は1階部分だけが遺されている。この建物16世紀前半にルートヴィヒ5世によって建設された。この建物の上階におそらく女官達の部屋があったとされる。1階には王の広間があり、様々な種類の式典に用いられた。
中庭右(東)側のオットハインリヒ館
この半ば崩れ落ち、壁面だけが残ったようで荒涼とした感じが郷愁を呼ぶ!?オットハインリヒ館は、1556年にプファルツ選帝侯となったオットー・ハインリヒによって建設された。正面ファッサードしか残っていないが、これは、ドイツ・ルネサンスの最高傑作といわれている。この新しい宮殿はドイツの土地に初めて建設されたルネサンス建築であり、ドイツ・マニエリスムの重要な建築作品である。
フリードリヒ館を中庭から
正面の華麗な建物が、フリードリッヒ館である。選帝侯フリードリヒ4世は、当時すでに崩れかけていた城内礼拝堂と居館の場所に1601年から1607年にかけてフリードリヒ館を建設した。以来、代々の選帝侯の居住館であったところである。ファッサード(正面の装飾)は、黄色の砂岩でできており、歴代の力のあった選帝侯の像が飾られている。フリードリヒ館はこの城で最初の宮殿建築であり、1階は現在も無傷で保存された城内教会となっており、上階部分が居館として用いられた。
フリードリヒ館をテラス(アルタン)から
こちら側は夕日に照らされ、中庭から撮ったものよりかなり明るい色に。
テラス(アルタン)から鐘楼とガラスの広間棟を
工事中の鉄パイプの足場が、これら建物の規模の大きさを表わしてかっこいい?
テラス(アルタン)から旧市街地方面の眺望
眼下には、旧市街の赤い屋根の町並み、ネッカー川の流れ、アルテ・ブリュッケ、対岸のハイリゲンベルクの緑の森等々が広がる。
テラス(アルタン)からアルテ・ブリュケを
テラス(アルタン)から武器庫方面を
城壁で塁段になっている城独特の光景、その向こうに見える町並み、ネッカー川、山並・・・。これまた絶景!
火薬棟(Krautturm)
この塔はプファルツ継承戦争時の1693年にフランス兵によって爆破されたともいい、プファルツ継承戦争時は持ちこたえたが、その4年後大量の火薬を貯蔵した結果、爆発したともいうが・・・?
巨大な壁の断片が現在も塔に寄り掛っている。それにしてもすごい厚みの壁だ。直系24m、厚さ6.5mだというw(*゚o゚*)w
エリザベート門
この門は1615年、フリードリッヒ5世(在位1610年~1623年)がイギリス生まれの妻エリザベス・スチュワートの20歳の誕生日に若い妻を驚かすために一夜にして建設されたとされるが、これを裏付ける文献上の証拠はない。二人は、政略結婚であったにもかかわらず、大変仲がよかったといわれる。エリーザベト門は凱旋門の様式で造られており、ハイデルベルク城におけるバロック建築のモニュメントである。建築家はエリザベスと一緒にハイデルベルクにやって来た2人の建築家のうちの1人サロモン・ド・コウである。
牢獄塔(ゼルテンレーア・Seltenleer)を中心に
エリザベート門を入ったところから空濠越しに見える廃墟のような光景は、まさに「兵どもが夢の跡」だ。中央下やや左の一部が崩れた小さな円塔が牢獄塔。
㊧牢獄塔から左側を、㊨牢獄塔から右側を
㊧左端に見えるのがイギリス館、その右へ図書館棟、ルーブレヒト館と続く。
㊨左から、ルーブレヒト館、城門搭、石橋続く。
ワインの大樽
大樽棟(Fassbau)には巨大な樽が収められている。大樽棟は王の広間と隣接しており、祝宴の際ワイン貯蔵庫と宴会場が可能な限り近くになるよう設計された。現在の大樽は4代目の樽であるが、代々の大樽にはそれが造られた時の選帝侯にちなんだ名が付けられている。①ヨハン・カジミール樽 1591年、②カール・ルートヴィヒ樽 1664年、③カール・フィリップ樽 1728年、④カール・テオドール樽 1751年である。
初代大樽のヨハン・カジミール樽の容量は約12万7千リットルであったが、代を追うごとに大きくなっていった。現在のカール・テオドール樽は、直径7m、長さ8,5mあり、建造時 22万1,726リットルであったが、木材の乾燥により21万9千リットルほどの容積となっている。
木製の樽としては世界一のもので、樽の上の方に、CとTのカール・テオドールのイニシャルである紋章が飾られており、130本の樫の木からできている。左右の階段を上がって棚の上の踊り場に上がることもできる。当時、税金の代わりとしてワインを納めることができ、この樽におさめられたワインは、いろいろな畑のものが混ざり合い、アルコール度が5%くらいで質的には良くなかったといわれる。城の最盛期には、常時500~600人の人がいて、1日約2000リットルくらいワインが消費されたという。ワインは、ポンプでくみ上げることができ、それは階上の宴会場である「王の間」に運ぶことができた。