徳島城南東の水堀と大手門へ続く下乗橋(写真奥)
蜂須賀正勝(小六)の子家政が大修築、蜂須賀氏16代300年の居城
別名
渭山城(いのやまじょう)、渭津城(いのつじょう)
所在地
徳島県徳島市徳島町城内、徳島中央公園
形状
平山城と平城の二城式平山城
現状・遺構等
【現状】 徳島中央公園
【遺構等】 曲輪、石垣、堀、庭園、鷲の門(復元)、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2002/03/08
2014/10/15
歴史等
室町幕府の管領・細川頼之は、南北朝期の元中2年(1385)当地を訪れ、山河の織りなす景観に深く感じ入り、水墨画に描かれた中国の渭水の風景そのものだとして渭津(いのつ)と名付けたと伝えられる。そして、その要害の地である渭津の地に山城を築き、家臣を配置して守備にあたらせた。これが徳島城のはじまりと云われる。
以後、渭津城は、勝端城や阿波一宮城とともに、細川氏による阿波国統治の拠点として重要視された。
天文21年(1552)、細川持隆を謀殺した三好義賢は、永禄年間(1558~69)に秋月城(現阿波市秋月)の城主森氏に城を預けた。
天正10年(1582)土佐から侵入した長宗我部元親が攻略し、吉田康俊を城番に置いたが、同13年(1585)豊臣秀吉の四国征討で城を無血開城した。
四国征伐をなしとげた豊臣秀吉は、軍功により阿波17万5千石を蜂須賀正勝(小六)に与えたが、正勝は高齢を理由に子の家政に譲った。当初、家政は阿波一宮城に入ったが城下町を経営するには不向なので、交通の便利な今の城山を中心に、山上にあった渭山城と麓の寺島城を取り込む形で築城し、阿波を治める拠点とした。そして、この地を徳島と改め、城の名を徳島城とした。
その後、関ヶ原合戦・大阪の陣で徳川方に属した家政は、阿波を安堵され、以後、蜂須賀家が居城し、16代300年で明治維新を迎えた。
藩祖・蜂須賀家政は永禄元年(1558)戦国の戦いの続く慌しい時、宮後村(現在の愛知県江南市)で生まれ、13歳の時、早くも父正勝に従って姉川の戦いに出陣し、その後、父とともに各地に転戦した。秀吉の四国征伐の時も、父とともに龍野から海を渡って高松城(喜岡城)を攻め、大坂越えをして阿波へ攻め入り、家政は脇城・岩倉城を、正勝は阿波一宮城を攻め落した。
『「パンフレット」、「日本城郭大事典(新人物往来社刊)」、「日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)」等参照』
現況・登城記・感想等
徳島城は、吉野川河口付近の中洲に位置する標高61mの城山に築かれた山城と城山周囲の平城からなります。山城は連郭式で、いくつかの曲輪が段差を持って連続しており、西から順に、西三の丸・西二の丸・本丸・東二の丸と配置されています。
徳島城の見どころは、荒削りで武骨な印象の石垣ではないでしょうか。石垣は山城の大部分と平城部分の多くに残っています。
石垣の石の多くは眉山の三波川変成岩(結晶片石)で、和歌山城などにも使われている青緑っぽい緑泥片岩をはじめ、赤みがかった紅簾片岩や青色片岩などが使われています。
ただ、石垣の間から延びている木々により、石垣が崩れそうになっている部分が多く見られたのが何とも気になります。もう少し、早い時期に取り除くことが出来なかったのでしょうかねえ。
尚、平城(御殿)には、国指定の「表御門庭園」が残っているのですが、庭園にはあまり興味がないのと、時間の関係で省略しました。
(2014/10/15登城して)
ギャラリー
徳島城縄張図(現地説明板より)
徳島城は、吉野川河口付近の中洲に位置する標高61mの城山に築かれた山城と城山周囲の平城からなります。山城は連郭式で、いくつかの曲輪が段差を持って連続しており、西から順に、西三の丸・西二の丸・本丸・東二の丸と配置されています。
東側水堀(堀川)と数寄屋橋
徳島中央公園(徳島城跡)の北東にあるパーキングに車を停めて南へ向かってくると、当写真の平城部分(御殿)北東隅の水堀前へ出ます。
徳島城は、北は助任川、南西を寺島川に囲まれています。そこで、東側を守るために人工の水堀を設け内堀とし、「堀川」と呼ばれました。堀川の水は、助任川から導水しています。写真右角の石垣上には隅櫓が建っていました。尚、写真左に見えるのは数寄屋橋です。
数寄屋橋
徳島城の鬼門(北東)にあたる門が旗櫓(写真右奥石垣上)の下にあった数寄屋門(橋の奥)で、不明門とも呼ばれたように、凶事の際以外には開かれることのない門でした。その数寄屋門の東側、水堀に架けられた橋が数寄屋橋で、長さ12m、幅3mの太鼓橋です。現在は、往時を偲ばせる木製の橋が架けられています。
数寄屋門脇から南へ延びる石塁(城内側から撮影)
鷲の門(復元)
堀川の南に位置するこの付近は、徳島城築城時には城外でしたが、その後、城の南に新しい曲輪「三木曲輪」が築かれ城内となりました。その曲輪の門が鷲の門です。徳島城の巽(南東)に位置する表口見附のこの門は、造りが脇戸付きの薬医門で、幕府に鷲を飼うからと申し立てて建造したことからその名があると伝えられています。
廃藩置県後、建造物で唯一残されましたが、昭和20年(1945)の徳島大空襲によって焼失しました。その後、平成元年(1989)徳島市制100周年を記念して、徳島市出身の学校経営者吉井ツルヱ氏により復元寄贈されました。
堀川と月見櫓跡(左奥は下乗橋)
鷲の門の北側の堀を挟んだ石垣の東南角(写真右手前)には「月見櫓」が建っていました。2層2階建てで、2階の四方にベランダのように張り出した縁側があるのが特徴で、「着見櫓」とも呼ばれ、鷲の門の往来を監視する役割も担ったとされます。写真右奥に下乗橋が見えます。
下乗橋
下乗橋は、御殿への正面出入口にあたり、この橋を渡ると枡形石垣が設けられた大手門です。橋の名前は、橋の前で駕籠や馬などの乗り物から降りて歩いて渡ったことに由来します。以前は、木製の太鼓橋でしたが、1869年に花崗岩製となり、1908年に現在のような水平の橋に改造されました。
大手門跡(城内側から撮影)
大手門の枡形虎口の石垣の石は、大きさも形も色も不揃いですが、それにより却って趣きがあるような気がします。
太鼓櫓跡
太鼓櫓は、大手門の西にあり、望楼型の3層4階の天守のような造りをした大型の櫓で、外廻縁高欄があり、物見としての役割と娯楽の目的を持っていました。
御殿跡に建つ徳島城博物館
徳島城の平城部分(御殿跡)には博物館が建てられ、徳島藩と蜂須賀家に関する歴史資料や美術工芸品が常設展示されています。また、国指定の名勝である「旧徳島城表御殿庭園」が残されています。
蜂須賀家政銅像
蜂須賀家政(藩祖)は、天正13年(1585)四国平定の功により、豊臣秀吉より阿波一国を任され、一宮城に入り、翌天正14年に中世からの城であった渭津(いのつ)城を修築して徳島城としました。
一説に「阿波踊り」は、城が竣工した折、家政が城下に「城の完成祝いとして、好きに踊れ」という触れを出したことが発祥ともいわれるそうです。
戦前は野太刀と長槍を持った蜂須賀小六正勝(家祖)の銅像が建っていましたが、戦時中に供出されてしまったそうです。現在の、家政の像は昭和40(1965)年に建立されました。
西三の丸門跡
蜂須賀家政像の背後の西坂口から石段を登って行くと、西三の丸門跡へでます。西三の丸門も、枡形虎口になっており、その石垣が良好に残っています。
西三の丸跡
西三の丸の跡地は、現在水道配水池が設置されていて、中へは入れません。山城の石垣はほとんどが現存しますが、この西三の丸跡の一部は失われています。
西二の丸へ向かう
西三の丸門跡を入った左手下(写真左の石柱の左下)が西三の丸跡で、右手の石段を登ると、西二の丸へ出ます。
帳櫓台石垣
石段を登ると西二の丸へ出、左手奥に帳櫓台が見えます。帳(とばり)とは、舞台に下りる幕の事ですが、果たしてどんな建物が建っていたのでしょうか?
西二の丸跡
西二の丸は数段で構成されています。写真左奥の石段の上が本丸で、石段右手には、弓櫓の石垣があります。
弓櫓台石垣
本丸へ登る石段の右手には弓櫓台の石垣があります。弓櫓は本丸の西端に突出して築かれていました。弓櫓には、弓などの武具が納められていました。本丸には、その他にも東西の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓などが設けられていました。
なかなか、見事な石垣ですが、石の間から大きな木の切株が出て、今にも崩れそうで怖いほどです。もう少し、早い時期に取り除くことが出来なかったのでしょうかねえ。
尚、正面に見える石垣は本丸西面の石垣で、その上が本丸です。
本丸北面の高石垣
反りのある高石垣がかっこいいですね。
本丸跡
本丸跡は、だだっ広い空き地になっています。本丸は、標高61mの城山頂上に置かれた曲輪で、山城部分の中では最も広く、重要な役目を果たしていました。築城当初、天守は本丸跡にあったのですが、元和年間(1615~1624)に取り壊されたといわれており、、城山の中腹にある東二の丸に天守代用の御三階櫓が構えられました。
実は今回、本丸を見たあと、元来た道を戻ってしまい、本丸の東の石垣や、東二の丸跡(天守跡)の写真を撮り忘れてしまいました( ̄ー ̄;
本丸石垣と東門跡(2002/03/08撮影)
今回の登城で、東二の丸や本丸東石垣を撮り忘れたので、前回の登城(2002/03/08)に撮ったものを掲載しました。尚、東二の丸は、前回も撮り忘れています(/。ヽ)。