チュイルリー公園に設置された観覧車から見下ろす庭園
アンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディシスが夫の死後造らせた宮殿
フランス語名
Palais des Tuileries
所在地
Rue de Rivdi, entre la Place de la Concorde et le musee du louvre
訪城日
1994/05/09
2003/07/05~09
2011/06/18~19
歴史等
1559年にアンリ2世が没すると、ルーヴル宮殿が気に入らない王妃カトリーヌ・ド・メディシスは、1563年からルーヴル宮殿の近くにチュイルリー宮殿の建造を命じた。そして、それは約100年の時を費やして完成した。
1664年にはルイ14世の命で、ヴェルサイユ宮殿の庭園なども手掛けたル・ノートルによって泉水や散歩道などが整備され、現代に残る庭園を造り上げたが、1683年に王宮はヴェルサイユ宮殿に移った。以後、150年近くこの宮殿は放っておかれた。
再びチュイルリーに王宮が戻るのは、フランス革命の最中の1789年のことであった。革命の最中、ルイ16世とマリー・アントワネットが民衆によってパリに連れてこられ、ここに幽閉された。そして、国民公会、公安委員会の拠点として使用された。一方で、ヴァンデミエールの反乱の後で成立した総裁政府は、政府をリュクサンブール宮殿などに移動させた。
フランス革命以降、国民の手に渡ったチュイルリー宮殿を、ナポレオン1世が短期間だったが再び王宮として整備したが、1871年ナポレオン3世がプロセインの戦いで大敗した後、5月23日、パリの民衆によって宮殿は焼き討ちされた。
その後、パリ市庁舎やルーヴル宮殿の一部などパリ・コミューン時に焼失した建物は、外壁を再利用して逐次再建されたのに対して、チュイルリー宮殿は王政や帝政の象徴ということで、1883年に解体された。
現在では庭園(チュイルリー庭園)のみが残る。
『ウィキペディア他より』
現況・登城記・感想等
チュイルリー宮殿は、17世紀から19世紀まで使用されていた宮殿で、ルーブル宮殿の西側にあったが、今ではチュイルリー庭園のみが、往時の面影を伝えるだけだ。
広々とした公園は、ルーヴル美術館の見学を終えた観光客や市民の憩いの広場となっている。私も、ルーヴルに来ると、必ず寄るのがこのチュイルリー公園だ。
公園の西端には、モネの「睡蓮」を筆頭に、ルノワール、セザンヌ、マティス、ピカソ、ユトリロ、ゴーギャンなど19世紀末から20世紀初頭にかけての近代絵画が観られるオランジュリー美術館が建ち、東側には1805年のナポレオンの勝利を記念して建てられたカルーゼル凱旋門が建っている。
ギャラリー
チュイルリー公園
チュイルリー公園の噴水前からルーヴル美術館を
チュイルリー公園の移動観覧車 (2003/07/08撮影)
この観覧車、移動式らしく私達が乗った後、解体していた。つまり地面に乗っかっていただけなのだ。後で恐ろしくなった(苦笑)。尚、2011/06には設置されていなかった。
カルーゼル凱旋門 (2011/06/18撮影)
チュイルリー公園の東(ルーヴル美術館の西)にあるカルーゼル広場に建つ。「凱旋門」は戦勝記念碑である。そのため、パリだけでも、サン・ドニ凱旋門、サン・マルタン凱旋門など多数存在するが、単に凱旋門と言えばシャンゼリゼ通りのエトワール凱旋門を指すことが多い。ここからは、チュイルリー庭園、コンコルド広場のオベリスク、シャンゼリゼ大通りを抜けてエトワール凱旋門へと一直線上にあり、門を通してエトワール凱旋門が小さく見えるが、小さすぎて見えない?
カーゼル凱旋門からエトワール凱旋門をズームアップ (2011/06/18撮影)
上写真ではほとんど見えないので、カーゼル凱旋門の下からズームアップ。エトワール凱旋門の前に見える塔はコンコルド広場のオベリスクで、両側の森はチュイルリー公園。
チュイルリー公園の西端に建つオランジュリー美術館
オランジュリー美術館「睡蓮の間」