壬生氏100年の城、江戸期最後を締め括ったのは鳥居氏160年
別名
馬蹄城
所在地
栃木県下都賀郡壬生町本丸1丁目
形状
平城
現状・遺構
現状:城址公園(歴史民族資料館、図書館、公民館)、住宅地他
遺構:本丸、土塁、水堀、説明板
満足度(10点満点)
4点
訪城日
2007/06/03
歴史等
壬生城は、室町時代のなかばの文明年間(1469~86)に壬生綱重によって築かれたと云われ、
各地の大名が勢力を競っていた戦国の世にあって、約100年間もの間、壬生氏の主要な城であった。
しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原征伐の時に、後北条氏に味方をしたため、滅亡した。
慶長6年(1601)からの110年間は、日根野氏(1万石)、阿部氏(1万石)、三浦氏(2万石)、松平氏(4万2千石)、加藤氏
(2万5千石)とめまぐるしく城主が代った。
そして正徳2年(1712)鳥居忠英が近江水口から移ってからは、明治維新を迎えるまでの160年間、鳥居氏(3万石)が代々城主となった。
江戸時代の記録によると、壬生城は、本丸・二の丸・三の丸・東郭・下台郭・正念寺郭の6つの郭からなり、これらの郭は土塁・
堀で囲まれていた。又、天守や櫓といった建物は建てられていなかった。
本丸は約140m四方の大きさで、南と北に門があり、土塁の上には塀がめぐっていた。又、本丸内部には御殿があり、江戸時代の初めには、
将軍の日光社参の宿舎として使われた。
現在、本丸址も、その南側を残すのみとなったが、平成元年に城址公園として整備され、県内に残る数少ない近世城郭の1つとなっている。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
町民のための城址公園として整備するというのはこういうことなのであろう。本丸内への立派な橋が架かり、
残っていた土塁はきれいな石で腰巻土塁に変形され、実にきれいな公園になっている。とても往時を偲ばせるような城址ではないが、
多くの人達に来てもらうには、このような整備も止むを得ないのかも? 案内板に整備前の土塁の写真があったのが、せめてもの救いだが、
もっときれいなカラー写真にして欲しかった。
尤も、土塁の内側に登ってみると、それなりに雰囲気が残り、忠実な復元ではないが、そこから見る「きれいな」
水堀もなかなかのものではあった。
ところで、「壬生って言うと、京都を連想する(特に新撰組?)」なと、前々から思っていたんですが、ここの「歴史民族資料館」の展示資料に
「壬生氏は京都出身といわれ、5代にわたって、宇都宮氏や小山氏など土着諸大名の間に勢力を広げ、一説に18万石といわれる領地を支配した」
とあり、「多分京都の壬生の出身なんだろう」と納得しました。どうでもいいことかも知れないけど、胸の痞えが取れたような感じがします。
(2007/06/03登城して)
ギャラリー
大手門に架かる橋
【土塁と堀、改修前と現在(改修後)】 ~クリックにて拡大画面に~
㊧改修前(現地案内板写真より)
と㊨現在(改修後)
㊧古城らしくて結構いいけどねえ! 、㊨確かに、この
「きれいな」水堀もなかなかのものではある?! でも、綺麗な石垣の腰巻土塁ねえ?! 町の多くの人達に来てもらうには、
このような整備も止むを得ないのかもね?
土塁(本丸内部側) 本丸内側の土塁は、
かなり雰囲気が残っているようで良かった、良かった!!
本丸(本丸内はきれいな庭になっており、歴史民族資料館、図書館、
公民館が立ち並ぶ)