遠江 掛川古城(掛川市)

本丸背後の大堀切

掛川城のおおもとの城

所在地

静岡県掛川市掛川

形状

平山城

現状・遺構等

現状:龍華院、公園、住宅地等
遺構等:曲輪、土塁、堀切、城址への案内板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2007/05/27

歴史等

掛川古城は、戦国時代の文明年間(1469~86)、駿河守護大名今川義忠が遠江支配の拠点として、重臣朝比奈泰熙に小高い山 (天王山)に城を築かせたと云われている。その後拡張・強化が進められ、子の泰能が城の南西方の龍頭山に新城を築造した。
永禄11年(1568)今川義元の子・氏真は、武田信玄に駿河を追われ掛川城に立て籠もった。
翌年、徳川家康は掛川城を攻め、 長期の末、開城させた。家康領有後、重臣石川家成が入城し、対武田氏の防御の拠点となった。この時、 家康はこの掛川古城に本陣を敷いたと云われる。
家康が関東移封後、山内一豊が入り、城の改築や城下の整備を行うと共に、龍頭山に天守閣を造った。
『掛川城パンフレット参照』

現況・登城記・感想等

はっきり言って、遺構に関しては全く期待していなかったが、嬉しい誤算であった。
本曲輪の東側には立派な土塁が残り、その奥にはかなり深く(約10m)て広い堀切が残っており、その向こうには二の曲輪跡が残っている。 ここだけでも、めっけもんであったが、堀切の底が道のようになっており、これだけは興醒めであった。
また、本曲輪には、随分立派な家光廟が建っていた。余計なことではあるが、その説明板の 「嗣子のない北条氏重が家光のの霊を祀り家の存続を願ったといわれているが、万治元年(1658)氏重嗣子無しに除封された。」を見て、 北条氏重の哀れと徳川家の厭らしさを改めて思い知らされた(ちょっと大袈裟!? 岡崎生まれながら、何故か徳川嫌いの私ですから勘弁!)。
本丸はお寺ということもあり、木々が鬱蒼としているが、二の丸はあけっぴろげな公園といった感じで、それほど高くはないものの、眺望が良い。
(2007/05/27登城して)

ギャラリー

登城道(龍華院への坂道)
この城址で、 掛川古城に関して示されているのは、「天王山掛川城跡」とあるこの案内板が唯一のものであった。

本丸跡
本丸跡は結構広い。

家光廟
随分立派なものである。説明板には 「嗣子のない北条氏重が家光のの霊を祀り家の存続を願ったといわれているが、万治元年(1658)氏重嗣子無しに除封された」とある。
折角こんなすごいものを建てたのに、可愛そうな北条氏。

本丸東側に残る「土塁」
この土塁を見付けた時は嬉しかった。

土塁と堀切
土塁の向こうに深さ10mはあろうかという堀切は感激物だった。 おまけに向こう側に曲輪跡も見える!!
「土塁址(掛川古城)」の標柱には、「文明初年朝比奈備中守泰熙築」と書かれている。

堀切
ところが、堀切の下へ行ってみると、 折角の堀底が道になっているのには、ちょっと興醒め。

二の丸跡
二の丸はあけっぴろげな公園といった感じで、それほど高くはないものの、眺望が良い。

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント