讃岐 丸亀城(丸亀市)

高石垣の上に建つ現存天守

生駒親正が高松城の出城として築城、高石垣に覆われた城山の姿は圧巻

別名

蓬菜城、亀山城

所在地

香川県丸亀市一番丁

形状

平山城(標高:66m)

現状・遺構等

現状:亀山公園 【昭和28年国指定史跡】
遺構等:現存天守、大手一の門、大手二の門、大手東西土塀、御殿表門、番所、長屋、本丸・二の丸・三の丸の高石垣、内堀、井戸、石碑、 説明板

満足度

★★★★★

訪城日

2004/07/21
2007/05/03

歴史等

室町時代初期、管領・細川頼之の重臣の奈良元安が亀山に砦を築いたのが始まりと云われる。
讃岐17万石大名・生駒親正が高松城の出城として、 慶長2年(1597)から5年を費やして築城した。
しかし、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となった。この時、親正は、万一に備え、土を盛って石垣を隠し、 樹木を植えてカムフラージュしたが、寛永17年(1640)の「生駒騒動」により、生駒氏の治世は4代54年間で終わり、 出羽矢島1万石に移された。
生駒家のあと讃岐は2分されて、東讃岐12万石に松平氏が、西讃岐5万3千石には九州天草から山崎家治が入封した。そして寛永18年 (1641)家治は、廃城になっていた丸亀城を修復した。その山崎家も、3代17年で後継ぎがなくお家断絶となった。
そのあと、万治元年(1658)京極高和が入封し、7代220余年で明治を迎えた。
『日本100の城(日本交通公社刊)参照』

【石垣にまつわる伝説】
羽坂重三郎は、常に裸になって一生懸命働く事から「裸重三」と呼ばれ、丸亀城の石垣を完成させた功労者である。
殿様は「さすがは重三の築いた石垣だけあって完璧だ。これでは空飛ぶ鳥以外にこの城壁を乗り越えるものはあるまい。」とご満悦であった。
ところが、重三郎は「私に尺余りの鉄棒を下されば、容易に登ることができます。」と言って、鉄棒を使いすいすいと城壁を登ってしまった。
殿様は、重三郎を生かしておいては来敵に通じた場合、恐ろしいことになると考え、城内の井戸の底を重三郎に探らせて、 その隙に石を投じて殺してしまった。その伝説の井戸が二の丸井戸である。
(パンフより)

現況・登城記・感想等

丸亀城の魅力は何といっても、亀山を取り巻くように螺旋状に幾重にも高々と築かれた石垣と、その上に聳える天守閣の眺望であろう。 三の丸・二の丸・本丸の石垣総高は60mもあり、日本一である。
残念ながら、真夏に行ったため、木々の葉が生い茂っていて、その石垣の多くを隠してしまっているために、 本来なら城山全体を覆っているはずの、圧倒されるような石垣群を見ることは出来なかった。しかし、それぞれの高石垣の素晴らしさや石垣から、 その姿は容易に想像出来る。
天守そのものは、現存12天守の中で尤も小さいだけあって、本当に小さく、ややもすればちょっとした三階建ての蔵といった感じさえする。 ところが、その小さな天守が、高石垣の下から見るとそびえているように見えるし、また電車の窓から見えた石垣で覆われた(多少、 木々が邪魔していたが)城山とその上にそびえ建つ天守の姿は本当に素晴らしかった。
当日は、本当に暑い日であったが、その素晴らしさに暑さを忘れて城郭を歩き回った。いつか、 冬の木々の葉っぱが落ちてしまっている頃に再登城したいものである。
(2004/07/21登城して)


5月3日、4日はお城祭ということで、「この小さな町の何処からこれだけ多くの人が集まってきたんだろう」という位の人込みであった。 にも関わらず、この城の最大の見所でもある「天守閣と高石垣を見上げる二の丸搦手口」と「三の丸西側高石垣を見上げる所」では、 ほとんど人に出会わなかった。これだけのものを勿体無い。
それにしても、亀山を取り巻くように螺旋状に幾重にも高々と築かれた石垣と、その上に聳える天守閣の光景は見事だ!!
(2007/05/03登城して)

ギャラリー

丸亀城図              ~クリックにて拡大画面に~

丸亀城全景            ~クリックにて拡大画面に~


満々と水を湛えた堀(いざ登城)
 

大手一の門(右)・二の門(左) 昭和32年国指定重要文化財
城内側(右)の櫓門を一の門、堀端の高麗門を二の門と呼ぶ。寛文10年(1670)京極氏の時に完成した。 一の門は楼上に太鼓を置き、城下に刻を知らせたことから太鼓門とも呼ばれている。
 

藩主玄関先御門
京極氏の屋敷の表門にあたり、形式は薬医門である。この門に接して番所・御駕籠部屋・長屋がある。
 

見返り坂
大手門から山上に向かう山道は見返り坂と呼ばれている。

三の丸北側の高石垣  ~クリックにて拡大画面に~
丸亀城のなかで最も高く、20m以上の城壁が続く。隅角部は算木積みされた美しい曲線美で、扇の勾配と呼ばれている。

三の丸西側高石垣      ~クリックにて拡大画面に~
 

㊧三の丸
本丸・二の丸をめぐる曲輪で、3箇所に隅櫓があった。

三の丸井戸跡
囲いは東西南北とも約3.5m、井戸の直径は約2.5mあり、山崎時代(1641~1657) の絵図によると深さは31間(約56m)と記されており、石垣と同じ花崗岩を使っている。現在は空井戸となっていて、 城外への抜け穴伝説がある。

三の丸の月見櫓と飯野山(讃岐富士)

㊧三の丸から二の丸への虎口

二の丸
山上で2番目に高い曲輪で、本丸同様に石垣上に隅櫓や多聞があった。


二の丸井戸
この井戸は、直径が約1.8m、深さは絵図によると65mと記され、 日本一深い井戸と言われている。現在も水を湛えている。

㊧二の丸から本丸への入口

本丸
本丸は山上にあり、天守の他に隅櫓・多聞・土塀が石垣上に巡っていた。

本丸隅櫓跡
 

現存天守閣  昭和18年国指定重要文化財
三層三階の現存天守で、高さ約15m、一階北側には石落や狭間がある。唐破風や千鳥破風で意匠を凝らしている。四国内では最も古く万治3年 (1660)に完成したもので、全国12の現存天守の中で最も小さい。

天守閣の梁

三の丸から見た天守閣      ~クリックにて拡大画面に~

搦手門跡から

お城祭(2度目の登城の時)

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