下総 石毛城(常総市)

多賀谷氏の侵攻に備えた豊田城の前衛の城

所在地

常総市元石下

形状

平城

現状・遺構

現状:八幡神社、公民館、住宅地
遺構等:土塁、石碑、説明板

満足度(10点満点)

2点

歴史等

桓武平氏の末裔豊田氏は、その勢いが盛んなときは、豊田33郷、下幸島12郷、筑波郡西部を領有し、11代基安は南常陸に侵攻し、 弟基久を牛久に分家(南北朝争乱の頃)する等、常総野4隣を圧するものがあった。
一方、南常陸の結城家は重臣多賀谷氏を下妻に配し小田・豊田の抑えとした。やがて戦国時代に突入し、 とみに勢力を増大した多賀谷氏は主家結城氏より独立を図り、佐竹氏と結び、豊田領侵略の機を窺った。
豊田氏は自衛上、先ず隣城手子丸(元豊里町)の菅谷氏と婚し東方の憂いを除き、多賀谷氏に対する備えとして、 17代元豊は三男家基を豊田領最北端の袋畑(現下妻市)に封じ、豊田本城の第一陣とした。
豊田家19代政親は常陸小田城主氏治の妹をめとり、親族大名として同盟関係に入り、さらに天文元年(1532)、石下城を築き、 二男次郎を石毛次郎政重と名乗らせ分封して、豊田城の前衛とした。
豊田氏必死の防戦にもかかわらず、多賀谷氏の攻勢は激しく、豊田の旗下行田館(現下妻市)、下栗常楽寺(現千代川村)、総上の袋畑右京、 4ヶ村の唐崎修理、長萓大炊、伊古立掃部、豊加美の肘谷氏などを相次いで降し、又小田の旗下にあった吉沼城を攻め落し、 さらに館武蔵守の守る向石毛城を攻め落した。
永禄元年(1558)、石下政重は、兄治親とともに、来攻する下妻多賀谷氏の大軍を迎え撃ち、 小田氏の援軍を得てこれを撃退した。また永禄4年(1561)には、政重は豊田、石下の連合軍500余兵を率いて、宍戸入道と相謀って、 古沢宿(現下妻市)へ進撃したが負傷し、下妻城を目前にして帰城した。 永禄6年(1563)には、多賀谷軍の岡田、猿島侵攻に抗して、政重は廻文し、古間木城主渡辺周防守を始めとする岡田、猿島勢がこれに応じ、 3400余兵を以て、5000余兵の下妻勢と激戦し、勝利のうちに和睦(結城晴朝の仲裁)する等積極果敢なるものがあり、 豊田本城の前衛としての責をよく果たした。 そして天正元年(1573)、再び攻め寄せた多賀谷軍を迎え撃ち、 小田の援軍を得てこれを破った。
しかし、多賀谷軍の攻勢は激しく、小田・豊田・石下は力を合わせ戦うも、守るのが精一杯で新進気鋭の多賀谷氏を打倒する程の気概はなかった。
また、常総の諸豪は、情勢をみて佐竹氏・多賀谷氏の膝下に屈していった。そして、天正3年(1575)9月13日、 政重が石下城中にて脳卒中のため死亡した。さらに、20代(一説に22代)豊田城主治親も、 弟政重の死に遅れること1ヶ月余り、多賀谷氏に内通した家臣飯見大膳に毒殺され、豊田城は多賀谷軍に乗取られた。
多賀谷勢700余は時を移さず石下城に攻め寄せたが、豊田・石下勢250余頑強にして攻めあぐみ、数日間死闘を繰り返した。しかし遂には、 7歳の幼君太郎正家の安泰と主殺しの大罪人飯見大膳の引渡しを条件に下妻に降った。石毛太郎正家は叔父東弘寺忠園に養育され仏門に入り、 のち、石下山興正寺中興の祖として天寿を全うした。
石下城は多賀谷氏一族の拠る処となったが、天正13年(1585)、多賀谷家の内紛により、築城54年にして廃城となり、 後顧の憂いを除くため消却されたといわれている。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに多賀谷氏は西軍(石田方)に与したため、翌年徳川家康に改易追放され、石下地方は徳川の天領となり、 多賀谷氏の豊田、石下領支配は27年にして終った。
『「現地説明板」、「豊田城址説明板2箇所」、「常総市地域交流センターパンフレット」より』

現況・登城記・感想等

八幡神社の裏側(北)から西にかけて神社を囲うように土塁が残っている。勿論、石下駅のすぐ傍で、町中のことでもあり、 往時を偲ばせるほどのものではない。
ここも、立派な、しかも詳細な説明が記された説明板(石)が建てられている。
(2007/07/01登城して)

ギャラリー

石毛城址(八幡神社)に建つ立派な説明板
豊田・石下の史跡の説明板(石)は、いずれも非常に立派。しかも説明が実に詳しい。

土塁(神社裏側)
八幡神社の裏側(北)から西にかけて神社を囲うように土塁が残っている。

土塁(西側)

石碑(説明板に較べると、石碑はたいしたことはない)

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