遠江 勝間田城(牧之原市)

本丸跡の祠と城址碑

遠江の古名族・勝間田氏の平安末期から室町中期まで340年間の居城

所在地

静岡県牧之原市榛原町勝田2160-1

形状

山城(比高差100m)

現状・遺構等

現状:山林、茶畑
遺構等:曲輪、土塁、堀切、櫓台、虎口、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2007/06/17

歴史等

勝間田氏は、平安末期から室町中期まで約340年間この地方を領有した豪族で、一説によると、 源義家の庶子と伝えられる横地氏の出自とある。
保元の乱には勝間田氏は横地氏と共に源義家の下で活躍し、遠江に勝間田氏があることを中央にまで知らしめた。また、その後、 鎌倉幕府の御家人や玄蕃助として、或いは歌人としても現れる。
そして、南北朝期の元弘の乱(1331年)には、河内の赤坂城、千早城の攻防に一族が攻撃側と守備側の両陣営に分かれて参戦していることが記録に見える。
室町期に入り、将軍の直属軍として応永の乱(1399年)や永享の乱(1439年)に活躍し、 応仁の乱が起こるや勝間田修理亮は横地氏と共に、今川氏と対立し、今川義忠の猛攻の前に文明8年(1476)遂に横地氏の横地城と共に落城し一族は四散した。 一説には現在の御殿場市周辺に移り住んだと伝えられている。
応永年間に勝間田定長が築城したとされているこの城は、中世の代表的な山城で、牧の原台地に連なる尾根を巧みに利用して曲輪、土塁、 堀切が設けられ、南東部の尾根には他の城跡に例を見ない鋸状の堀切が見事に残っている。
文明8年(1476)の落城後、この城が再び使われたとする記録は見あたらないが、遺構からはその後手が加えられた形跡が認められる。
『「現地説明板2箇所」、「静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)」より』

現況・登城記・感想等

さすが静岡県の、しかも牧の原台地に残る城址である。城址専用駐車場から道なりに少し登って行くと、目の前一杯に茶畑 (茶山或いは茶丘といったほうが相応しいかも)が拡がる。その姿は、まさに山の形そのもので、うねった曲線が実に美しい。
その茶畑の一番上後方に城址はある。
勝間田城は、その遺構の様式からみて、中世の城(室町時代初期または南北朝期)と戦国時代の城(築法からみて武田氏によると思われる) の新旧2つの城に分けられる。
まず出曲輪を経て入城すると土橋があり、その両側が天然の堀切である。次に、三の曲輪に出るが、三の曲輪はかなりの広さがあり、 土塁で囲まれている。そして、虎口を通って二の曲輪へ出る。勝間田城では、この二の曲輪が最も広く、ここも土塁で囲まれている。 そして建物の跡などが、発掘調査の結果を踏まえて表示されていた。さらに進んで行くと、堀切がある。ここまでが、戦国時代の城である。
そこをさらに進んで行くと、東(左)側に櫓台を持つ東尾根曲輪に出る。櫓台からの眺望は非常に良く、遠くの山並みがよく見える。また、 手前には、深い谷越しに先程通ってきた二の曲輪や三の曲輪が見える。
さらに進み本曲輪へ出る。本曲輪北側下には腰曲輪(北尾根曲輪)がある。本曲輪上に登ると、南側に土塁が残り、虎口(搦手口?)があり、 本当に細い道を通って曲輪外へ出られる。その道の右側は絶壁で、深い谷になっており怖いほどである。
さらに奥へ進む道があり、大堀切があるらしいが、崖崩れでもあったのか残念ながら侵入禁止になっていた。
本丸北側下には腰曲輪があり、また堀切(切通し)?を挟んで南曲輪があったので登ってみたが、草茫々。
(2007/06/17登城して)

ギャラリー

茶畑             ~クリックにて拡大画面に~
さすが静岡県の、 しかも牧の原台地に残る城址である。城址専用駐車場から道なりに少し登って行くと、目の前一杯に茶畑 (茶山或いは茶丘といったほうが相応しいかも)が拡がる。その姿は、まさに山の形そのもので、うねった曲線が実に美しい。

㊧城内への土橋と、 ㊨石碑   ~㊧はクリックにて拡大画面に~
出曲輪を経て入城すると土橋があり、その両側が天然の堀切である。
 

㊧三の曲輪、  ㊨西三の曲輪
三の曲輪はかなりの広さがあり、土塁で囲まれている。また、その西側には西三の曲輪があり、 発掘調査の結果、掘立柱建物があったらしく番小屋が建っていたようである。
 

三の曲輪から二の曲輪へ入る虎口

二の曲輪(ここまでが戦国時代の城)
勝間田城では、この二の曲輪が最も広く、ここも土塁で囲まれている。そして建物の跡などが、発掘調査の結果を踏まえて表示されていた。

堀切
この堀切が中世と戦国期の城の境

東尾根曲輪の櫓台

上写真櫓台からの眺望   ~クリックにて拡大画面に~
櫓台からの眺望は良く、 遠くの山並みが霞んではいるがよく見える。また、手前には、深い谷越しに先程通ってきた二の曲輪や三の曲輪が見える。

本丸(手前は北尾根曲輪)

本丸の石碑と土塁

㊧搦手への虎口?と、 ㊨さらに奥への道
㊧本曲輪上に登ると、南側に土塁が残り、虎口(搦手口?)があり、 本当に細い道を通って曲輪外へ出られる。その道の右側は絶壁で、深い谷になっており怖いほどである。写真で見る以上に本当に細い道である。
㊨さらに奥へ進む道があり、大堀切があるらしいが、崖崩れでもあったのか残念ながら侵入禁止になっていた。
 

本曲輪と南曲輪間の堀切?切通し? の道
右が本曲輪土塁で左が南曲輪土塁。南曲輪への道(左中央)も非常に細く、手前は絶壁。

南曲輪
登ってみると、まさに草茫々で、とても上がってみる気にはなれない。

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