本丸周囲を囲む石塁
七尾に居城の能登守護畠山氏が越中進出の拠点として築城
別名
正式名:湯山城
所在地
富山県氷見市森寺
形状
山城
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、堀、石垣、井戸、碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2007/06/09
歴史等
中世の史料には「湯山城」の名で登場するが、廃城後は麓の村名から「森寺城」と呼ばれている。
七尾城を居城とした能登守護畠山義統が越中への進出の拠点として16世紀の初め頃(室町時代の中頃)に築いたと推定される。
この城は、市の北部能登との国境に近く、阿尾川に沿った標高162メートルの御殿山にあり、
氷見から能登に向う荒山街道を抑えていることから、軍事的、政治的に重要な地点となっている。
天正13年(1585)、越中の佐々成政が、羽柴(豊臣)秀吉に降伏し、氷見地域が能登と同じく前田氏の所領となったため、
城としての役割を終え廃城になったと推定される。
城郭には、本丸、二の丸をはじめとして、これをとりまく土塁、石垣、空堀などに見るべきものがあり、
このように雄大な城構えは氷見随一である。
『現地説明板2箇所より』
現況・登城記・感想等
天気予報では「一日中雨、しかも激しい雨」であった。そんな中の強行登城であったが、幸運なことに、登城中はほとんど降られず、
登城を終え駐車場に戻ったとたんに、雷まじりの大雨となった。
森寺城址は、中世の城郭の雰囲気を色濃く残す城址で、しかも登城道もよく整備された空堀状の遊歩道となっていて、
非常に気持ちよく散策ができた。この道は「塹壕」と説明があり、当時の輸送路とのことである。
駐車場は寺沢屋敷跡の南側にあり、その登城口を登ると、すぐに「本丸・二の丸方面」と「搦手口方面」の分岐点へ出る。
本丸へ向かうと、百間馬場や、虎口、堀切、竪堀、郭が見られる。そして、「二の丸・本丸方面」と「サイダ屋敷方面」への分岐点があり、
二の丸・本丸方面へ登って行くと、二の丸の虎口附近に石垣が残っている。
二の丸はかなり広く、大きな井戸が残っている。そして二の丸の右奥に本丸があり、石塁がめぐっている。石塁前の説明板によると、当時は、
その石垣の前に堀が巡っていたようだが、今ではほとんど埋まった状態である。二の丸のもう一つの虎口が大手口らしいが、
そこにも石垣が残っている。
「サイダ屋敷」や「野崎屋敷」は、各山の頂上?に独立した郭として存在していたようだ。
搦手口は、喰い違い虎口になっており、その土塁と堀切がよく残っている。
この城で不思議なのは、本丸へ辿り着くのに、どう見ても大手口よりも搦手口からの守りが堅いように思える。
大手口と搦手口が逆なのではないのかなあ?
(2007/06/09登城して)
ギャラリー
㊧登城口と、㊨「本丸・二の丸方面」と「搦手口方面」
の分岐
寺沢屋敷跡南側の駐車場から登城口を登ると、すぐに「本丸・二の丸方面」
と「搦手口方面」の分岐点へ出る。
喰違い虎口
遊歩道をしばらく歩いて行くと、虎口に出た。両側に堀切もはっきりと残っている。
百間馬場
「本丸・二の丸方面」と「サイダ屋敷方面」
への分岐点
二の丸虎口への道
二の丸石垣
二の丸虎口近くに、石垣が残っている。
二の丸
左に大きな井戸跡、右奥の石垣の向こうが本丸
本丸
本丸は石塁がめぐっている。石塁前の説明板によると、当時は、その石垣の前に堀が巡っていたようだが、
今ではほとんど埋まった状態である。僅かに凹んでいるのが分かる。
本丸を巡る石垣
二の丸虎口
二の丸へのもう一つの虎口が大手口らしいが、そこにも石垣が残っていた。
大手門跡
この場所に「大手門跡」の案内板が倒れていたが、「本当かな?」という印象。よく分からない。
上写真の二の丸虎口は、右土塁の向こう側になる。
二の丸下の竪堀
二の丸下の帯曲輪跡を回ってみたら、二の丸下に竪堀が
大手門への登城道
荒町とある削平地から、大手口への道が
本丸下の石垣
本丸の裏側にも石垣が残っている。
サイダ屋敷
サイダ屋敷は相当な広さの曲輪で、野崎屋敷と同様、山の頂上?に独立した曲輪として存在していたようだ。㊧は塹壕から撮影。
奥の土塁上がサイダ屋敷。㊨はサイダ屋敷の上にて。
サイダ屋敷下の塹壕(空堀状遊歩道)
道はよく整備された空堀状の遊歩道となっていて、非常に気持ちよく散策ができた。この道は「塹壕」
と説明があり、当時の輸送路とのことである。
搦手口(城外から)
この絡手口は喰違い虎口になっており、右土塁手前と、左奥土塁手前には堀切が確認できる。
搦手口(城内から)
右土塁奥と、左土塁奥に堀切がはっきりと確認できる。
搦手口の堀切
㊧は外側の堀切、㊨は内側の堀切