下総 向石毛城(常総市)

城跡の法輪寺に建てられた立派な説明碑と平将門のレリーフ(左)

風雲児平将門の館跡地に築いた、豊田氏初期の本城

別名

豊田館

所在地

茨城県常総市向石毛

形状

平城

現状・遺構等

現状:法輪寺、住宅地
遺構等:土塁?、曲輪?、石碑、説明板、平将門のレリーフ(石像)

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2007/07/01

歴史等

承平天慶の乱により、天慶3年(940)平将門が戦死後、この地は平貞盛の領地となったが、貞盛は所領を弟繁盛に委任し、 繁盛の子維幹を養子として全領を伝え、伊勢の国に遷り、伊勢平氏の祖となった(9代後、清盛出現)。
当地方は、維幹の孫・常陸大掾平重幹の第三子政幹が赤須四郎(石毛荒四郎)と名乗り、下総豊田郷石毛荘に住した。
前九年の役において、源頼義・義家父子は陸奥の安倍頼時、貞任追討の命を受けて北上する。赤須四郎は、豊田郷兵を率いてその軍列に加わり、 阿武隈川一番乗りをはじめ、衣川の戦い等に数々の功をあげた。その戦功により、康平5年(1062)、 後冷泉天皇より鎮守府副将軍に任ぜられ、神旗(蟠龍旗)と豊田郷を下賜され、名を豊田四郎平将基と改め、豊田氏の祖となった。将基は、 館を天然の要害豊田館跡に向石毛城を構築して、長子石毛太郎広幹を拠らしめ豊田氏隆盛の礎とした。これが向石毛城の起源である。
その後、戦国時代になり、向石毛城には関館氏の一族館武蔵守が支配し、永正年間(1504~21)、より要害の城にするべく塁を高め、 堀を深くし水を引き入れ、橋梁をもって城地を結び大手を拡げ、南に1の塚、北に2・3・4の塚の見張地を設けて防備を固め、 豊田城と東西相呼応して守りを堅くした。
下妻23郷を手中にした新興勢力の多賀谷氏は強豪佐竹氏と結び、小田・豊田領への侵入を図った。それに対し、天文元年(1532) 豊田城主19代政親は石毛城を築き、二男次郎を石毛次郎政重と名乗らせ分封して、豊田城の前衛とした。
天文年間(1532~1555)、下妻の多賀谷勢は突如として向石毛領に侵入し、 1の塚から次々と破られ、城主武蔵守は自刃し、向石毛城は落城、廃城となった。
『「現地説明板」、「豊田城説明板2箇所」、「石毛城説明板」、「常総市地域交流センターパンフレット」参照』

現況・登城記・感想等

ここは、何と「かの平将門の館」があった所で、その跡地に「向石毛城」が築かれたとの説明板があったが、本当かな? ちょっと疑わしいような気もする。 こういう言い方は町の方に失礼かも知れないが、「将門が豊田の出身であることは間違いないし、 いずれにしても、この豊田の地の何処かに将門の館の場所を特定する為に、最も可能性の高い地を選んだのでは」とか考えてしまう。
さて、ここも御多分に漏れず、宅地化により遺構はほとんど残っていない。また、唯一残っていそうな法輪寺の周りは草茫々で、 とても入っていけるような状態ではない。NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」が流されていた頃は綺麗に整備されていたんだろうな!?  
ただ、豊田郷の他の史跡と同様、本当に立派な説明板(石)が建っていた。
(2007/07/01登城して)

ギャラリー

向石毛城縄張図      ~クリックにて拡大画面に~
戦国時代になり、 向石毛城には関館氏の一族館武蔵守が支配し、永正年間(1504~21)、より要害の城にするべく塁を高め、堀を深くし水を引き入れ、 橋梁をもって城地を結び大手を拡げ、南に1の塚、北に2・3・4の塚の見張地を設けて防備を固め、
豊田城と東西相呼応して守りを堅くした。

法輪寺
唯一、 遺構の残っていそうな法輪寺の周りは草茫々でとても入っていけるような状態ではなかった。それにしても、こんな由緒ある寺が、 何故これだけ荒れ果てているんだろうか?
NHK大河ドラマ「風と雲と虹と」が流されていた頃は綺麗に整備されていたんだろうな!?

法輪寺の裏(東側から)
先々週のマムシに出会ったトラウマで、とても入っていく勇気はない!!

㊧説明板、 ㊨説明板真ん中の平将門出陣の絵
豊田郷の他の史跡の中でも、ここのが特に立派な説明板(石)である。
 

㊧平将門のレリーフ、㊨ 「平将門公本拠豊田館跡」の石碑
「風と雲と虹と」の加藤剛をモデルにしているのかな? それにしては・・・?  加藤剛が可哀想!
 

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