美濃 高須城(海津市)

尾張藩の支藩、幕末徳川慶勝・一橋茂栄・松平容保・定敬などを輩出

別名

高須陣屋

所在地

岐阜県海津市海津町高須町11-1(海津明誠高校の辺り)

形状

平城

現状・遺構

現状:海津明誠高校、住宅地
遺構等:土塁、堀、石碑

満足度(10点満点)

1点

訪城日

2007/11/26

歴史等

美濃高須城主高木盛兼は文禄元年(1592)から1万石を領して居城していたが、慶長5年(1600) の関ヶ原合戦で西軍に与したので、福島正則に属した高松城主徳永寿昌・今尾城主市橋長勝の攻撃を受け、落城して逃亡し、除封となった。
戦功により徳永寿昌が2万石を加増され5万600石にて入封、立藩し、城郭を修築した。
寛永4年(1627)、寿昌の嫡子昌重が、大坂城石垣築城工事に懈怠があったとして改易、徳永家の治世は29年間で終わった。
その後、幕府直轄となったが、寛永17年(1640)下総小笠原貞信が入封、立藩したが、木曽・長良・ 揖斐川の三川による水害に悩まされたため、貞信は元禄4年(1691)所替えを願い出て越前勝山へと転封となり、再び幕府直轄となった。
元禄13年(1700)尾張藩2代藩主徳川光友の次男松平義行は、信濃伊那郡にこの地を加え3万石を領して立藩し、尾張藩の支藩となり、 明治まで続いた。
高須藩は、本家尾張藩主家に後継ぎが絶えた時、相続人を出す家柄で、3人が尾張藩主となった。
10代藩主義建は、尾張藩主・慶勝(次男)、石見浜田藩主・武成(3男)、一橋家・茂栄(5男、慶勝が尾張藩主を隠居後、 15代尾張藩主茂徳となり、徳川慶喜が将軍となったあと一橋家を相続)、会津藩主・容保(7男)、桑名藩主・定敬(9男)の父である。
『藩と城下町の事典(東京堂出版刊)より』

現況・登城記・感想等

高須藩というと、会津藩主松平容保や桑名藩主定敬の出た藩ということで、どうも好きになれない。
八幡和郎氏が『江戸300藩最後の藩主・うちの殿さまは何をした?(光文新書刊)』の桑名藩の項にて、 「養子の殿さまが実兄に従い迷走したので藩士に多くの犠牲を出したのだが、殿さまの方は楽しく余生を送っているのだからいい気なものである。 明治になって尾張・会津・一橋・桑名の4兄弟で撮った写真が残っているが、私などはこれを見ると腹立たしくなる。」と述べておられるが、 私も全く同感である。
さて城跡(陣屋跡)であるが、ほとんど壊され海津明誠高校や住宅地となり、高校のグラウンド傍の城跡公園に「城跡公園」 と彫られた石碑が建っているが、その公園に面影は全く無い(近くに、堀跡や土塁が一部残っているようだが、よくわからなかった)。
また、そこから少し離れた場所に城郭風の驚くほど立派な「海津町歴史民俗資料館」があったが、残念ながら月曜日で休館だった。
その横に流れる大江川の岸に大名船着場が復元されて往時の雰囲気を出している。
(2007/11/26登城して)

ギャラリー

土塁(石塁)?
高校のグラウンドの近くに小さな森があり、中をよく見ると石塁があったが、遺構なのかどうか?

城郭風建築の海津町歴史民俗資料館
高校からは少し離れた所に、城郭風の驚くほど立派な「海津町歴史民俗資料館」が。

大名船着場
資料館の横を流れる大江川の岸に大名船着場が復元されている。

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