丹波 金山城(篠山市)

丹波制圧の為に明智光秀が波多野氏(八上城)と赤井氏(黒井城)の連携分断の為に築城

所在地

兵庫県篠山市追入

形状

山城(標高537m、比高差約300m)

現状・遺構

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、石垣、竪堀、馬場、井戸、虎口、説明板

満足度(10点満点)

6点

訪城日

2008/07/06

歴史等

金山城(きんざんじょう)は、織田信長の命を受け丹波制圧にのりだした明智光秀が、天正6年((1578)9月より同7年(1579) 10月にかけて標高537mの頂上に築城した。
天正6年(1578)2月、三木城主別所長治が信長に背いたとき、 篠山盆地一帯を支配していた戦国大名波多野秀治は、この謀反を支援して他の丹波国人衆とともに一斉蜂起した。
光秀は、信長に征討を命じられ、同年3月に丹波へ侵攻した。
秀治は居城八上城にて、 氷上郡にある黒井城の赤井氏と連携し光秀に徹底抗戦を続けた。
光秀は天正3年(1575)に黒井城を攻めた際、 秀治に背後から襲撃され、京へ命からがら逃げ帰った思い出があったので、この両者の連携を最も恐れた。
そこで、光秀は、両者の連携を分断するために、多紀郡(現篠山市)と氷上郡の郡境にあり、 両郡を結ぶ交通の要衝であったこの地に金山城を築いた。
これが功を奏したのか、八上城は天正7年 (1579)6月ついに落城し、波多野氏は歴史の舞台から消え去った。
金山城は天正10年(1582)頃には役目を終え、廃城になったと思われる。
『現地(登山口&本丸跡)説明板ほかより』

現況・登城記・感想等

金山城跡は、ハイキングコースになっており、4ヶ所ほどから登城口があるようだが、篠山市追入から登城した。
国道176号線「新鐘ケ坂トンネル」を南(篠山市側)へ出て300mほどの信号を西へ右折すると「追入神社」へと突き当たる。神社から南 (左)へ70~80mほどの所に登城口がある。
登城口には案内板と「1270メートル」の表示が・・・・。ム~・・・。「先程登った黒井城が1057mで35分ほど掛かった・ ・・。」ということは40~45分!?。
気温は34度。しかも湿気が高く、強烈な蒸し暑さで、先程の登城時に顔(薄い頭も)を拭いたタオルが汗で重い・・・・・・。 不安が胸をよぎる・・・。しかし、「まあ兎に角登ろう!!」
(昨日と今日の登城は、京都時代の同僚Mさんに付き合ってもらっての登城だ。弱音を吐く訳にはいかない。何でもないという顔をして登城!!)
登城口から、ひたすら登ること30分強で出丸の一つ園林寺跡へと出る。形の良い石垣が残っている。しかし、その石垣の上には、 瓦や廃材がゴロゴロ・・・・。何とも哀れな光景だ。
そこから、石垣の脇を北へ進むと馬場跡へ出る。馬場の曲輪の虎口にも土塁が残り、虎口手前に石灯篭のような石と井戸のような石積みがあった。 馬場は直線100mほどであろうか。
その先が、「鬼の架け橋150m」、「金山城跡100m」、「トンネル」への分かれ道になる。当然、まずは金山城跡へのルートを選ぶ。
本丸は、ほぼ東西に瓢箪の形をしており、東西40m強ある。北には黒井城、 南には八上城の案内の標柱が。 尤も、私には、どの山がそれらの城址かは分からなかったが・・・(笑)。
本丸下周囲は石垣があったようで、今も瓢箪の頭(西側)部分周囲下に所々残っている。特に、その南側の石垣がよく残っている。
最後に、鬼の架け橋から下を眺めて下山した。鬼の架橋の向こう側は、怖いほどの絶壁だった。
結局、本丸までは、予想通り45分近くの汗だくの登城で、下山の時には、かなり膝にきた。そして、兎に角暑かったが、達成感が湧いて来た。
尤も、付き合ってくれたMさんが、どう思ったかは知らないし、聞かないでいる。
(2008/07/06登城して)

ギャラリー

登城口
神社から南(左)へ70~80mほどの所に登城口がある。登城口には案内板と「1270メートル」の表示が・ ・・・ム~・・・!?。先程登った黒井城が1057mで35分ほど掛かった・ ・・。ということは40~45分!?。気温は34度。しかも湿気が高く、強烈な蒸し暑さで、先程の登城時に顔(薄い頭も) を拭いたタオルが汗で重い・・・・・・。まあ、「兎に角登ろう!!」(昨日と今日の登城は、 会社時代の同僚Mさんに付き合ってもらっての登城だ。弱音を吐く訳にはいかない。何でもない顔をして登城!!)

登城道
ハイキングコースになっているだけあって、道はさすがによく整備されていて歩きやすい。
 

園林寺跡石垣
登城口から、ひたすら登ること30分強で出丸の一つ園林寺跡へと出る。形の良い石垣が残っている。 写真手前の削平地も結構広い。

園林寺跡の瓦と廃材
石垣の上には、瓦や廃材がゴロゴロ・・・・。何とも哀れな光景だ。

馬場曲輪虎口
園林寺跡石垣の脇を北へ進むと馬場跡へ出る。馬場の曲輪の虎口にも土塁が残る。

石灯篭と井戸跡?
馬場曲輪虎口の土塁下に石灯篭のような石と井戸のような石積みがあった。

馬場跡
虎口を入ると、馬場が。馬場は直線100mほどであろうか。 尾根を利用したもののようで両側が崖になっている。

分岐点
馬場の先が、「鬼の架け橋150m」、「金山城跡100m」、「トンネル」への分かれ道になる。 それにしても案内板が一杯!しかも、金山城への距離が「100m」と「120m」の2種類がある。どっちが本当なの?。また、 トンネルって何?先程通って来た鐘ケ坂トンネルのこと?
何はともあれ、まずは金山城跡へのルートを。

見張り台?
分岐点を本丸へと登って行くと、途中、見張り台のような土塁上にこんな巨岩が。しかも割れていた。 説明がないので分からなかったが、見張り台に絡むもの?

いよいよ本丸へ
そして、登り始めて40分強、ついに本丸が見えてきた。

本丸全体
本丸は、ほぼ東西に瓢箪の形をしており、東西40m強ある。写真左奥が、瓢箪の頭部分。

本丸西(瓢箪の頭)部分
本丸下周囲は石垣があったようで、今も瓢箪の頭(西側)部分周囲下に所々残っている。特に、 その南側の石垣がよく残っている。

本丸から黒井城(北方面) を望む
北には黒井城の案内の標柱が。尤も、私にはどの山が黒井城址かは分からなかったが・ ・・(笑)。

本丸から八上城 (南方面)を望む
南には八上城の案内の標柱が。 尤も、どの山が八上城址かは分からなかったが・ ・・。おまけに、薄曇のため、写真にさえ写っていない。(笑)。

本丸西側の石垣

本丸南側の石垣

本丸西側から本丸を
ここから眺めると、往時は、本丸は総石垣であったのではと思われる。道を手前へ降りてくると、 鬼の架橋へと出る。

鬼の架橋
岩の後ろは強烈な崖。まさに絶壁!!それにしても、微妙なバランスだ。鬼の架橋とは、よく名付けたものだ。 架橋の下から、崖下を見下ろす眺望は恐怖さえ感じる。この辺りは、巨大な岩が、転がっていて、写真左には、更に大きな岩が一杯!!
 

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