復元された水原代官所の表門と石碑
鎌倉時代の地頭大見氏の末裔水原氏の居城
別名
杉原城、(江戸時代には水原代官所)
所在地
阿賀野市外城町10-5
東50mほどに無料駐車場有り
形状
平城
現状・遺構等
遺構等:復元代官所表門・建物、墓、石碑、説明碑
満足度(10点満点)
1点
訪城日
2009/05/24
歴史等
伊豆の豪族大見家秀は、源頼朝挙兵に参陣して功績があり、白河荘地頭職に任ぜられた。
後に子孫は安田条に入部し安田氏を称し安田城を築城した。その後、
さらに庶流が水原(すいばら)条を分与されて築城し、水原氏を称した。
水原氏は以後代々繁栄し、この地方の豪族の中核的存在となった。
戦国時代になると、水原氏は春日山城の長尾
(上杉)氏に臣従するようになり、天正6~8年(1578~80)の「御館の乱」、同9年~13年(1581~85)の「新発田重家の乱」
をともに上杉景勝に与して戦った。
しかし城主水原満家が新発田城攻めの帰路に重家の追撃を受け討死、
水原城は重家方の手に渡った。景勝は度々水原城を攻め立てたが、攻略できず、ついに内通者に火をかけさせて落城させた。
この戦いで満家が討死にしたことにより水原氏は断絶したが、景勝は越中出身の大関弥七に水原氏の名跡を継がせ、水原常陸介親憲を称した。
親憲は、慶長3年(1598)上杉氏の会津若松城移封に従い、
猪苗代城代として5千500石を知行した。
江戸時代に入り、延享3年(1746)幕府は下越地方を中心とした新田開発の促進、豊かな年貢米の確保、近接する藩の監視・
情報収集などの目的で、水原城の跡に代官所を設置した。代官は22代を数え、代官所は明治維新まで122年間続いた。
『「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「現地説明碑」等参照』
現況・登城記・感想等
水原(すいばら)城はかつては湿地帯に面した平城であったが、今では市街地化が進み、遺構は全く残っていない。
わずかに平成7年(1995)に復元された「水原代官所」がその跡地であったことを語るのみである。
尚、どうでも良いことだが、この辺りは、同じ新潟県でも中越や上越と違い、かなり訛りがあるようで、
代官所の説明をしてくれる方の言葉が聞き取りにくかった(苦笑)。
(2009/05/24訪れて)
ギャラリー
復元された代官所表門
復元された代官所
代官所内の㊧御用場、㊨公事場(公事方)の白州
杉原(水原)常陸介の碑
中央が江戸時代に建立されたという石碑で、転々と何度も移されたようで、左側の碑には
「水原常陸介碑移転記念」と彫られている。右の碑は、水原常陸介についての説明が彫られている。
農業歴史資料館
代官所の隣には農業歴史資料館があり、朝市など野菜などの直売所などにもなっている。資料館とは云いながら、
大したものはなく、直売と代官所の入場受付が主たる業務?
尚、代官所は9時~16時までで、月曜・年末年始休館、入館料300円である。