名張陣屋正門(通称太鼓門)
筒井氏家臣松倉氏の名張城の上に建てられた名張藤堂家の陣屋
別名
名張藤堂家邸
所在地
三重県名張市丸の内54-3、名張藤堂家邸跡(隣に専用駐車場あり)
名張藤堂家邸跡:電話0595-63-0451
形状
陣屋
現状・遺構等
現状:三重県指定史跡
遺構等:正門(通称太鼓門)、屋敷(中奥部分)、井戸、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2009/05/12
歴史等
天正13年(1585)、筒井定次は、大和郡山城から伊賀上野城に移された。
定次の与力松倉勝重は名張8千石を与えられ名張城の築城に着手した。
翌14年(1586)勝重は没し、子重政(後の肥前島原城主)
が跡を継ぎ、築城完成した。
重政は関ヶ原の功により慶長13年(1608)大和五條1万石で移り、大坂の陣の功により、元和2年(1616)
肥前有馬4万石に加増転封された。
慶長13年(1608)、伊勢半国・伊賀一国20万石の太守として津城に入った藤堂高虎は、
養子高吉(丹羽長秀の三男)を伊予今治城主としたが、
寛永12年(1635)に藤堂高吉は、領地2万石を伊勢・伊賀の内に移され、名張に松倉氏の名張城の縄張をそのまま使い、屋敷を建てた。
宝永7年(1710)4月の名張の大火により全焼、ただちに再建が始まった。名張城の石垣や堀を埋めて、造成した。
名張藤堂家は、大名として待遇されず、藤堂本家の領内領主として家臣とは別格として取り扱われ、11代高節の時に明治を迎えた。
『名張藤堂邸跡パンフレット、展示資料参照』
現況・登城記・感想等
分不相応な島原城築城のための圧政により
「島原の乱」を引き起こした悪名高い松倉重政が、この名張城の築城者でもあったとは、今回初めて知った。
その名張城の上に建てられたという名張陣屋は、屋敷の一部(中奥部分)が残り、正門(通称太鼓門)も移築現存している。また、
枯山水の庭も保存されている。そして、それらのいずれも見応えのある立派なものだ。
ただ、どうも私の好みは建築系ではなく土木系らしく、この建物の地下に埋まっているという名張城の石垣等を見たいと思ってしまう(笑)。
(2009/05/12訪れて)
ギャラリー
名張陣屋の区域
名張藤堂家邸屋敷図(パンフレットより) ~クリックにて拡大画面に~
名張藤堂家邸への門
三重県指定史跡「名張藤堂家邸跡」は、周りを新たに土塀で廻らせ、入口に門が建てられている。
名張藤堂家邸の現存屋敷
現存する屋敷は、2段上の屋敷図中の中奥を中心とした部分で、祝間、次、囲(茶室)、湯殿などの部屋で、
宝永7年(1710)以後再建された屋敷の一部である。現存建物を見ると、小屋根が交差して複雑な形をしているが、これは、
この部分の建物が一時期に建てられたものではなく、徐々に整備され、増築されてきたことを示す。藤堂家邸は、
現存する上級武家屋敷の数少ないもので、それも表の部分でなく、残される事の少ない、
当主の日常生活の場である中奥部分であることは特質されるものである。(パンフレットより)
枯山水の庭
この枯山水の庭も、宝永7年(1710)以後再建されたものである。この維持保存も大変なようだ。
管理人の叔父さん(お爺さん?)が一人でやってるそうだ。しかもボランティアのようだったなあ?
井戸跡
太鼓門散策道
藤堂家邸の南西に太鼓門散策道があり、そこを入って行くと寿栄神社に移築された陣屋正門(通称太鼓門)
がある。尚、左奥の蔵は、昭和57年(1982)からの整備事業で新築したものである。
移築陣屋正門(通称太鼓門) ㊧外側から、㊨内側から
この太鼓門は、正門だけあって随分立派なものである。
【松倉氏名張城】
名張藤堂家邸跡の地下には、松倉氏が築いた名張城が埋まっている。
丸の内通りの整備事業によって昭和62年から平成2年まで発掘調査が実施され、名張城の石垣や空堀等遺構や遺物が確認された。
邸内に写真紹介と出土物の一部が紹介されていたので、その一部を・・・。
私は、どちらかというと、こちらの発掘状態のものを見たかった(苦笑)。埋め戻さず残す方法はなかったのだろうか?
厳しい地方行政予算も含め、いろんな意味で無理だろうねえ。
(石垣)
(空堀)
(瓦)