宅地に埋もれた本丸跡に建つ2基の石碑と説明板
織田伊勢守系の城、信長に攻められ落城
所在地
愛知県岩倉市下本町城跡
【行き方】
県道25号「下本町下市場信号」の東約100mの道路沿い南側に城址碑と説明板が
形状
平城
現状・遺構等
現状:宅地
遺構等:石碑(2基)、説明板
満足度
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訪城日
2010/01/23
歴史等
岩倉城は文明11年(1479)頃、織田伊勢守系の兵庫助敏広が築城した。
敏広は、この城に拠って、尾張上4郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を支配し、武威を示していた。
一方、下4郡(愛知・智多・海東・海西)は清洲城の織田大和守敏定が支配し、
尾張南部にて両者は絶えず争っていた。
弘治3年(1557)織田伊勢守信安が岩倉城主の時、清洲城主は織田信長となっていた。
信長と信長の弟・信行(末森城主)
の相続争いに不穏な動きが出た際、信安は信行の後押しをしたということで、信長に攻められ、永禄元年(1558)の浮野合戦(一宮市浮野)
で敗れた。
そして翌2年、あらためて岩倉城に押し寄せた信長に攻められ、2~3ヶ月の籠城の末、遂に落城した。
『「現地説明板」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」等参照』
現況・登城記・感想等
岩倉城は宅地に埋もれ、往時の面影は全くなく、本丸跡に不動堂が祀られ、安政7年(1860)に建てられたという「織田伊勢守城址」
と刻まれた石碑と新しくて立派な「岩倉城跡」と刻まれた石碑2基、そしてその脇に説明板が建てられているだけである。
(2010/01/23訪れて)
ギャラリー
岩倉城下町復元図(現地説明板より) ~クリックにて拡大画面に~
城跡は東西約91m、南北約171m、標高10mの台地上にあり、内外二重堀があったといわれる。
昭和62年度から3年間にわたり愛知県埋蔵文化財センターにより発掘調査され、6条の堀跡などが確認された。堀幅が20mを超え、
深さ3m以上もある大規模な堀跡も確認された。また、従来の通説を覆し、
五条川東岸まで城域が広がる遺構も検出され強固な城であったことが解った。(現地説明板より)