主郭とそこに建つ小さな城址碑
結城一族・長沼氏の居城か
所在地
千葉県成田市長沼(城址公園「長沼市民の森」)
【行き方】
国道408号線を北上し、長沼地区が近づくと右前方に比高差20mほどのこんもりとした森が見えてくる。それが長沼城址である。
城址に向かって細い路地を入って行くと、麓に3基の石碑が建ち、その横に長沼城址の由来の説明板が建っている。城址へは、
その脇の鳥居をくぐり急な石段を登って行く。説明板のあるところから3~40mほどのところに駐車スペースがある。
尚、城址北西部からも登城道があるようだった。
形状
平山城(丘城)
現状・遺構等
現状:城址公園「長沼市民の森」(山林)
遺構等:曲輪、土塁、物見台?、標柱、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2010/01/11
歴史等
長沼城は、古伝によれば戦国時代の長沼五郎武俊の城と伝えられる。
長沼氏は結城朝光の末葉で下野(栃木県)の長沼に住した五男朝良の後胤であり、5世の孫朝教が此処に居城を設けた。
長沼五郎武俊はその子孫である。
武俊は広の台城主羽鳥新助豊勝、大竹城主大竹次郎信澄、荒海城主荒海左衛門重綱らと千葉方に属して竜台合戦に参加し、討死したため、
この城も廃城となった。
尚、異伝によれば、印東別当常閑、印東太郎師常(鏑木本千葉系図)、長沼淡路前司(東鑑三十五)、大野修理(常総軍記)
の城砦とも記されている。
『現地説明板・標柱より』
現況・登城記・感想等
長沼城は、周囲に腰曲輪や帯曲輪を擁しているものの、基本的には独立丘の頂部を削平して主郭とした単郭の丘城である。
山麓は人工によると思われる切り立った崖(切岸)になり敵を寄せ付けないようになっている。
城址は城址公園「長沼市民の森」とは言いながら、主郭を除いて、ほとんど整備されていないのが実態だ。
尚、この地は長沼事件で有名で、
山麓と主郭跡に「長沼下戻記念碑」なる立派な石碑が建てられていたが、私は、その事件(歴史)のことは全く知らなかった。
ましてや福沢諭吉が関係しているとは・・・。
(2010/01/11登城して)
ギャラリー
遠景
国道408号線を北上し、長沼地区が近づくと右前方にこんもりとした比高20mほどの森が見えてくる。
それが長沼城址である。
登城口
城址に向かって細い路地を入って行くと、麓に3基の石碑(長沼下戻記念碑ほか2基)が建ち、
その横に長沼城址の由来の説明板が建っている。城址へは、その脇の鳥居をくぐり急な石段を登って行く。
この写真から右へ3~40mほどのところに駐車スペースがある。尚、登城口は、この反対側
(城址北西部)にもあるようだ。
腰曲輪
鳥居をくぐり急な石段を一気に登って行くと、社殿の建つ腰曲輪様の狭い削平地へ出る。
社殿裏の土塁の上が主郭である。
㊧主郭、㊨城址碑
腰曲輪から少し登って広い主郭へ出る。そこには城の歴史の解説が書かれた小さな城址碑が建っている。
物見台風の高み
主郭北西部には物見台のような高みがあり、その横(右)に展望台が建っている。
物見台とはいいながら木々が鬱蒼と繁り眺望はほぼゼロ。
展望台
展望台とはいえ、眺望は非常に悪い!
展望台から唯一北西部だけが・・・
展望台からは、唯一、北西部だけが望める。どうやら長沼事件の下戻の地・
長沼のあった辺りらしい。
長沼下戻百周年記念碑
展望台のそばに、福澤諭吉先生の直系をお迎えして云々の立派な「長沼下戻百周年記念碑」が建っている。
この城山は城址としてよりも、長沼事件の地としての方が前面に出るようだ。
福澤諭吉は、長沼事件だけでなく、
長沼学校の建設にも協力したそうで、そういえば山麓の長沼保育園には「福澤諭吉子ども館」なんてのもあったなあ。
土塁痕?
往時は、主郭周囲は土塁がめぐっていたのであろうか、1mにも満たないが、
低い土塁痕のようなのが散見される。この土塁痕は主郭の東部にあったもので、最もはっきりと残っている部分であるが、
これでも高さ1mあるかないかである。
主郭東部下
主郭東部下は帯曲輪のようになっており、その帯曲輪を分断するように土塁が突き出ている。
その横に階段があり下りて行けるようだ。この土塁は何なんだろう?
帯曲輪
大手道?
帯曲輪に突き出た土塁のところから降りていくと、東の方へ土橋のような道が続いていた。
ここが大手道に当るのだろうか?脇には、ちょっとした窪みと土塁のようなのが確認できる。
虎口?
振り返って、先ほどの帯曲輪に突き出た土塁の方を見てみると、まるで枡形虎口のような形状になっている。
往時の関東地方で枡形虎口はないとは思うが、喰い違いになった虎口ではあったであろう。