信濃 知久平城(飯田市)

本郭南側の空堀と本丸南東隅の土壇(天守土壇?)

諏訪大祝家「神氏」一族・知久氏の平山城、後に家康の下で菅沼定利が拡張整備

読み方

ちくだいらじょう

所在地

長野県飯田市下久堅知久平
【アクセス】
下久堅小学校周辺から北側一帯にかけてが城跡で、小学校北側の「下久堅保育園」前に説明板があります。車は保育園が休みだったので、保育園前の空地(駐車場)を拝借しました。
下久堅小学校:飯田市下久堅知久平940−1、0265-29-8003

所要時間

今回の見学時間は20分です。

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 宅地
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、井戸、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2013/11/17

歴史等

鎌倉時代の正嘉年間(1257~59)に諏訪大祝(おおほり)家「神(みわ)氏」一族の知久氏が上伊那箕輪の上ノ平城から地頭として知久平に移り知久平城を築いて居城としていたが、室町時代中期に神之峰城を築いて移り、知久平城を出城とした。
知久氏の所領は、下伊那郡の竜東一円、更に竜西の一部に及んでいたが、天文23年(1554)武田信玄の伊那地方進攻の際、落城し、城主頼元など一族8人は甲府に送られ処刑された。
その後、城は武田氏の支配となるが、天正10年(1582)武田氏滅亡と共に、徳川家康の家臣で田峯城主一族の菅沼定利の居城となり、知久平城を拡張整備した。
天正18年(1590)、定利は上野の吉井へ移封となり、知久平城は廃城となった。
尚、知久氏は、その後家康に認められ、喬木村阿島に旗本として陣屋を構え活躍した。
『「現地説明板」、「信州の城と古戦場・南原公平著(しなのき書房刊)」、「信州の山城・信濃史学会編(信毎書籍出版センター刊)」他参照』

現況・登城記・感想等

知久平城は知久平の段丘上にあり、東西170m~220m、南北約450mにも及び、知久平の大半を占めていたといいいます。
説明板には「標高770mもある不便な高い山の上に本拠(神之峰城)を築いて移り、知久平城を出城とした」とありますが疑問に思います。「信州の城と古戦場・南原公平著(しなのき書房刊)」にも、知久平城に館があったとなっていますが、やはり、私も平時の城(本城)は知久平城であったと考えるのが自然なように思えるのですが・・・?
さて、知久平城跡ですが、今では宅地化により多くが埋もれてしまい、その面影を窺い知ることはできません。ただ、町のあちこちに点々と残る土塁や空堀等の遺構を見ることができるだけです。
あまりにもバラバラに点在しているので、本丸北西端の出丸と殿様井戸を見落としてしまいました(;>_<;)。
(2013/11/17訪れて)

ギャラリー

知久平城縄張略図 ~現地(保育園前)説明板より~
知久平城縄張略図

本丸土塁(天守土壇?)
本丸跡南東隅には、分厚い土塁がありますが、天守か何らかの大規模建築物が建てられていたのではないでしょうか。
天守土壇

本丸空堀
本丸南東の土壇の南側には空堀跡があり、リンゴ畑になっていました。
本丸空堀

本丸南西端からの眺望
城の西側は急崖になっており、眼下には天竜川・飯田市街、その向こうには松尾城鈴岡城も見えます。
本丸からの眺望

二の丸南側の空堀
二の丸南側の空堀は比較的明瞭に残っています。こちらは、柿畑になっています。
二の丸空堀

三の丸土塁
保育園の裏(西側)には三の丸の土塁が残っています。かなり低くなっていますが、基底部幅は7~8mほどあり、往時はかなり高かったのではないでしょうか。
三の丸土塁

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