信濃 戸石城(上田市)

登城口に立つ城址碑と説明板、背後の山は戸石城址

信玄一世一代の負け戦「戸石崩れ」で有名、2度の上田城合戦でも重要な存在

別名

砥石城

所在地

長野県上田市上野字伊勢山

形状

山城(標高:791m)
米山城(こめやまじょう)と戸石城・本城・枡形城からなる複合城郭

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、堀切、竪堀、土塁、石積み、虎口、碑、説明板他

満足度

★★★☆☆

訪城日

2004/04/28

歴史等

戸石城は「枡形城」「本城」「戸石城」(+「米山城」を含む場合もある)の複合城郭群である。この城は本城を中心に、米山城・戸石城・桝形城によって防御された縄張りが特徴となっている。
築城の時期については諸説ありあきらかではないが、葛尾城に本拠を置いた村上氏、あるいは真田本城に本拠を置いた真田氏(海野氏)などが上田・小県・佐久地方の軍事上の要として築いたものと考えられている。いずれにしても天文年間(1532~1554)には埴科郡葛尾城の村上氏の属城であった。
天文17年(1548)2月の武田氏と村上氏による上田原の合戦で武田勢は大敗を喫し、板垣信方や甘利虎泰らの有力武将を失った。
天文19年(1550)9月、武田信玄は、態勢を整え、小県への侵攻を始め村上勢の拠る戸石城を攻めた。攻防は1ヶ月に及んだが、攻略を諦めた武田勢はついに撤退を開始したが、撤退の途中で村上勢に追撃され、全軍総崩れとなる。この敗戦が有名な「戸石崩れ」と称される信玄一世一代の負け戦である。
この戦いによって、難攻不落の竪城としての戸石城の名は近隣に轟いた。
しかし翌年20年(1551)5月に真田幸隆の諜略によって、あっけなく落とされ信玄のものとなった。
その後、天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡した。
真田昌幸は戦国大名として自立し、天正11年(1583)に上田城を築城開始し本拠を移すが、戸石城は上田城の詰の城として引き続き重要視された。
天正13年(1585)、沼田領の絡みで、徳川の大軍を迎え撃つことになったが、戸石城には信幸が入り、また、慶長5年(1600)の関ヶ原の役の際には幸村が戸石城の守備にあたり、攻撃側に甚大な損害を与えている(上田城参照)。尤も、関ヶ原時は戸石城攻撃が兄・信之であったため幸村は無血開城している。
役の後、真田昌幸の旧領は信幸(信之に改名)に与えられ、戸石城も支城として存続していたものと思われるが、元和8年(1622)信之の松代城転封に際して廃城となった。
また米山城には、篭城時に白米を馬の背に流して水が余るほどあることを見せかけたという白米城伝説も残されている。
『日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)参照』

現況・登城記・感想等

「砥石崩れ」で有名な城であり、真田幸隆の調略による城落としの本領発揮の城であり、その後も真田家とは密接な関係のある城跡であるので、以前から絶対に登城しようと決めていた。しかも前回(1996/05/02)は、夕方遅くなり、しかも登城口が見つからず、麓まで来ながら登城を断念したということで、期待でワクワクしながらの登城であった。
それなりにきつい山道ではあったが、その後登った松尾古城葛尾城と較べればたいしたことはなく、ハイキングコースとしても楽しめる。
途中、米山城と他三城との分岐点がある。米山城への最後の登り道はあまりにも急な坂道でロープが張ってあった(ロープなしで登るのは無理かもしれない)。
分岐点に戻ってからの戸石城への登り道も急な階段であった。米山城・戸石城からは上田方面の眺めが最高である。
戸石城からは、奥へ本城・枡形城と尾根伝いに繋がっている。枡形城からは真田方面の眺望が素晴らしく、真田本城松尾古城もよく見える。
遂に、前々から登城したかった戸石城へ来たんだという実感がひしひしと感じられ感激である。ただ、予想していたよりは、楽な道であり拍子抜けしたことも事実である。
(2004/04/28に登城して)

2004年4月28日(水)
上野発846の新幹線あさま503号にて上田に10:07に着いた。上田駅お城口の駅前レンタカーにて、いよいよかねてから行きたかった砥石崩れで有名な戸石城址へ向かう。(尤も、家内はどこまで興味があるか分からないが)
前回、上田と真田へ来た時には夕方になってしまったことや、登り口が分からずに諦めたが、今回はナビという強い味方がある。ナビで城址の住所である伊勢山を指定して出発。信号の下に伊勢山の文字を見つけ、戸石城址入口の看板も見つけたが、道路工事中ということもあり曲がりそこねた。Uターンして入口の方向に曲がった。すぐに、「戸石城址登口近道」の看板を見つけた。ちょうど空き地があったので、そこに車を止めて登り始めた。
墓の中を進んでいくと「戸石城跡」の看板を見つけた。その看板と戸石城址と思われる山を背景に写真を撮った後、その道を進んで行ったが、戸石城址の道標が出て来ない。右へ曲がる道があったが道標がないので真直ぐ5分ほど行った所で進入禁止の看板に出会う。戻って先程の曲がり道を曲がった所へ軽トラックが入って来たので尋ねたところ、この道を登っていって尾根づたいに行けばよいとのこと。最初、妙に登りにくい綺麗な石畳の坂道を100mほど行くと、ハイキングコースのような所に出た。そこからは、まさにハイキングといった感じで気持ちよく登って行くが、足元の砂が妙に滑りやすい。まわりを見ると非常に脆くて崩れやすい岩があちこちに見られる。その岩が崩れて砂になったものらしい。その岩は砥石が重なって出来ているかのようである。それで砥石城と言ったのかなと納得しながら登る。
10分か15分ほど歩いた所に「←戸石城址」の道標があった。昨日の雨もあがった後で霞もない快晴の天気で、左手に山の稜線がくっきりと見え、上田市内もよく見える。素晴らしい景色である。
そこから5分ほど歩いた所に、「左 米山城址10分、右 戸石城址15分」の道標があった。取り敢えず、白米伝説で有名な米山城址に向かって歩くと、馬場平の標識があった。どう見ても平な所ではないし、しかもあまりにも狭すぎる。そして、その先には斜度35度はあるかという道が・・・。ロープがはってあるから登れるものの、相変わらず滑りやすい砂である。頂上には10分もかからなかった。
頂上の見晴らしは最高。上田の市街や遠くの山がよく見える。米山城址の看板や村上義清の碑等々がある。
ほんの短い時間の後、先程の急な坂道を降りて戸石城へ向かう。坂道の途中で戸石城址の山が目の前に見える。戸石城への登り道はよく整備された階段ではあるが、かなり急な坂道である。
先程の「左 戸石城址15分」の所から10分位で頂上に着いた。やはり景色は最高である。米山城址を手前に、その向こうには上田市街と遠くの山並。
ここで、ちょっとしたこと(実は大問題)に気がついた。デジカメの充電用の器具を忘れてきたことに気がついた。しかも、予備の電池を持ってきたものの、既に使っている電池の残量が少ないことにも・・・。
今回の旅行では、たっぷり写真を撮ろうと意気込んできたのに・・・。そこから、本城・枡形城址に向かって5分ほど歩くと、わずかではあるが低い石垣があり、本城についた。本城は平坦な所で、結構広い。
さらに、 枡形城址に向かって歩くとやはり5分ほどで着いた。ここも景色は最高で、真田の町がよく見える。真田本城も松尾古城も、まわりの高い山々もよく見える。なんか嬉しくなってくる。
さあ、この後、真田本城・松尾古城が待っている。その前に昼飯か!折角信州に来たのだから当然蕎麦。

ギャラリー

戸石城
登城口から尾根道を行くと、右前方に戸石城址、左前方に米山城址が見える。

米山城

㊧米山城と戸石城の分岐点、㊨米山城への急崖
尾根道をしばらく進むと「左・米山城10分」「右・戸石城15分」の案内板へ出る。ますは、米山城へ向かうべく左へしばらく進むと、強烈な急崖へ出る。ここにはロープが付いているが、ロープがないと登るのが難しいほどの急坂である。

米山城主郭
急坂を登り切ったところが米山城の主郭で、城址碑と説明板が設置されている。また「村上義清公之碑」と刻まれた立派な石碑も立っている。米山城は、戸石城の西南方の峰続きにあり、主郭の南下に二郭・三郭を配置し、その下に腰郭も築かれている。米山城は、戸石城全体の中でも、他の三城(戸石城・本城・枡形城)とは独立しているような感じであり、出丸的な色彩が強いようだ。

㊧戸石城への急階段、㊨戸石城から上田市街を
先ほどの急坂を降りて、分岐点に戻り戸石城へ向かうと、今度は急な階段がある。そして戸石城主郭へ出るが、あまり広くはなく20m四方程度の方形郭である。戸石城は本城の南に連絡している。米山城もそうであるが、戸石城からも上田市街方面の眺望が素晴らしい。

戸石城背後の切岸
次に、戸石城から本城・枡形城方面へと向かう。振り返って戸石城主郭の切岸を撮影。この高い切岸はかなりの防衛能力を発揮するのだろう。

本城への大手道
戸石城から緩やかな道を本城へと向かうと、段曲輪が見えてくる。いよいよ、この辺りから本城城域である。ここに「大手口」の解説板が設置されている。それによると「戸石城へは、周囲の畑山・伊勢山・金剛寺の三方向から登れるが、この伊勢山からの道が大手口と考えられている。」となっている。

本城主郭が見えてくる
さらに進むと、いよいよ本城主郭の切岸が見えてくる。この切岸の規模は、写真で見るよりも大きい。また、石垣が一部残っている。

本城主郭の石垣

本城主郭にて
戸石城・本城・枡形城と連なる三城の中心で、数段の段曲輪になっており、最上段が主郭である。山上としては、かなり広い郭群であり、館もあったのではと推定されている。

本城背後の空堀
結構大規模な堀切である。

枡形城
戸石城の北端の要害(砦)で、入口が折れ曲がっており、枡形状になっているところからこの名がおこったものとみられる。また、ここが戸石城の最高地点であることから、ここが「本城」とされていた時期もあったという。ここからは、真田の町が眼下に広がり、松尾古城や真田本城も見える。

枡形城からの真田町の景色
真田本城も松尾古城も見える。

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