東城と西城を断ち切る竪濠と主郭土塁
武田信玄が三河進出の拠点として馬場美濃守に命じ築城した城
所在地
新城市作手清岳字宮山
【行き方】
「道の駅・つくで手作り村」を北へ約1kmの信号を右折すると、白鳥神社のこんもりとした森がある。ここが城址。
神社傍に1~2台駐車スペース有り。
形状
平山城(標高580m、比高約30m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、堀切、櫓台、枡形虎口、土橋、木碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2009/05/13
歴史等
元亀2年(1571)、武田信玄が東三河に進出して来ると、山家三方衆(田峯城の菅沼氏、
長篠城の菅沼氏、
亀山城の奥平氏)
は次々と帰順した。
しかし奥平氏がこれまで度々従属する相手を変えているのを知る信玄は、監視のために家臣馬場信春に古宮城を築かせたという。
しかし、亀山城に匹敵する規模を持っているところから見ても、
単なる亀山城監視のためというよりも、
信玄の三河進出のための本格的な築城と考えられる。
天正元年(1571)8月20日、信玄の病死を察知した奥平貞能・信昌父子は武田氏を離反し、亀山城から脱出し、
徳川方に奔った。この時、貞能・信昌父子は、別働隊に命じて古宮城へ発砲させ、本隊の脱出を助けたという。
そして、古宮城は、奥平・徳川連合軍の手によって落城した。
『「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「現地説明板」参照』
現況・登城記・感想等
亀山城址を見終わったのがPM5:
45、ちょっと薄暗くなってきたので大慌てでの僅か15分弱の登城だった。
そのためと、強烈な藪で、多くを廻ることは出来ず、縄張等の全体像は、ほとんど掴めなかったが、
大規模な空堀や土塁等の幾つかを見ることは出来た。
馬場美濃守信春が築城しただけあって、諏訪原城に似た雰囲気の、
見応え充分な城址であることは確かなようだった。草が枯れる冬に、必ず再登城し、じっくり見て廻ろうと誓った!
(2009/05/13登城して)
【縄張等】
南北約200m、東西約250mの独立した小山全体からなっている。
当時は南東北の三面が湿地になっており、西方は寒之神城に通じ主要部が分かれた一部別郭式の要害堅固な城であった。
北側から南側にかけて、中央部に全長140mの豪壮な竪濠があり、東城と西城に分離している。この竪濠の北側下端には、井戸址と、
三方を高さ1.5mの土塁で囲んだ約2.5アールの溜池がある。
西城の本曲輪は、約4.2アールで、その東側土塁には左右2箇所の虎口を設けているのが特徴である。
また、西城北側には5重の濠を擁して西方からの攻撃に備えている。
東城は頂部において、幅約4mの通路で西城とつながり約3.8アールの本曲輪に並んで二の曲輪があり、その北部は多数の曲輪が見られる。
東側下端は長さ250m最大幅30mの馬場を備えており、愛知県内随一の甲州流築城と言われる。
(現地説明板より)
ギャラリー
東城本曲輪枡形虎口
白鳥神社横の階段を大急ぎで登って行くと虎口らしきものが見えてきた。そして、
よくみると手前は枡形のようになっている。
㊧東城本曲輪虎口、㊨大ヒノキ
上写真の奥に見える虎口。土塁の高さは2m強であろうか。土塁上に大ヒノキが生えている。
東城二の曲輪
虎口から東城の主郭部(二の曲輪)へ入って行くと、強烈な藪。
おまけに薄暗くなってきて中へ入って行くのは諦めた。
東城と西城を中央部で断ち切る北側の竪濠と本曲輪土塁
これだけの藪でも、この濠だけははっきりと分かる(当たり前!?)。説明板にあるように、
確かに豪壮な濠である。
東城と西城を中央部で断ち切る南側の竪濠