駿河 丸子城(静岡市)

土橋

早雲が今川家の家督争いの難を避けるため竜王丸と北川殿をかくまった城

別名

宇津野ノ谷城・三角山城

所在地

静岡県静岡市駿河区丸子泉ケ谷

形状

山城(標高:136m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:外枡形、空堀、堀切、土塁、土橋、竪堀、横堀、曲輪跡、説明板、遺構案内板

満足度

★★★★☆

訪城日

1976年
2005/02/19

歴史等

創築年代は明らかではないが、麓の泉ケ谷に今川氏の重臣の一人斉藤氏の居館があり、駿府城が見通せる位置にあることなどから、 斉藤氏の詰の城としてあったものを、今川氏親の時代に駿府城守備の砦として手を入れたものと考えられる。
早乙女貢の「北条早雲」には、竜王丸(後の氏親) が元服するまで小鹿範満に家督を代行してもらうという妥協案を提示して家督争いを収めることに成功し、 その間竜王丸は北川殿とともに難を避けて、丸子の地に館を構え10年程滞在したとなっている。
時は過ぎ、永禄11年(1568)12月、武田信玄が駿河に侵攻、駿河府中は焼き討ちされ、 当主今川氏真は掛川へ落ち延びた。 駿府に陣を布く武田信玄は西駿河に残る今川方の城に対処するために、山県昌景を丸子城に駐屯させて守りを固めた。永禄13年(元亀元年、 1570)、全駿河を手中にした信玄は丸子城に諸賀兵部大輔・関甚五兵衛を置き、信玄没後の天正6年(1578)には、 屋代勝永に代えられた。この間大規模な増築が行われ、現在の姿となる。
天正9年(1581)3月、武田方の拠点高天神城が落城すると、 武田勢は城を明け渡して退去した。
その後徳川方の城となったが、家康の関東移封にともない廃城となった。
『静岡県古城めぐり(静岡新聞刊)参照』

現況・登城記・感想等

1976年に静岡に転勤してすぐ、有名な「丸子のとろろ汁」を食べに行った時に見つけ登ってみたのが初めてである。当時は、 城址にはあまり興味がなかったが、空堀や土塁を見たり、眼下に見える景色を見て、中世の時代を思い浮かべながらロマンを感じた憶えがある。
(1976年登城して )

2005年に30年ぶりに登った。
登り始めて12~13分ほどで外曲輪に着いた。ここまでの登り道は結構きつい。そのまま道を進むと、大きな空堀(三日月堀)にぶつかり、 その左側が土橋になっている。さらに進むと北曲輪(今川氏の本丸)に出る。北曲輪は丸子城を南北2つの城と見た場合、 北城の本丸にあたるところである。さらに進むと三の丸、二の丸へと出る。二の丸は南北30mほど、東西15mほどの広さである。 さらに進むと本丸(武田氏の本丸)に出る。ここまでの間、何本もの結構大規模な空堀で区切られている。本丸は「千畳敷」とも呼ばれ、 南北100m、東西40mとかなり広い。
この先にも、物見曲輪・大鈩(おおだたら)曲輪・袖曲輪等があるが、残念ながら雨がかなり降ってきて暗いので、ここで元の道に戻った。 この城は全般に空堀・土塁・曲輪等々がよく残っており、見応えがある。もっとじっくり見たかった。
(2005/02/19登城して)

ギャラリー

丸子城縄張り図         ~クリックにて拡大画面に~

三日月堀
30年ぶりの登城である。今回 (2005/02/19)は、泉ノ谷方面から登城した。登り始めて12~13分ほどで外曲輪に着いた。 ここまでの登り道は結構きつい。 そのまま道を進むと、大きな空堀(三日月堀)にぶつかり、その左側が土橋になっている。

竪堀
藪で分かり辛かった。

北の曲輪跡
今川氏時代の城の本丸にあたり、 丸子城を南北2つの城と見た場合、北城の本丸にあたるところであり、写真奥には結構高い土塁が残っている。

二の丸跡
南北30mほど、 東西15mほどの広さである。

二の丸(手前) から本丸へ架かる橋台

本丸跡
「千畳敷」とも呼ばれ、南北100m、東西40mと山城の本丸としてはかなり広い。

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