馬出曲輪と本丸間の空堀に架かる土橋
鎌倉時代以来の浜名湖北の名門・浜名氏も家康の遠江侵攻により滅亡
別名
浜名城
所在地
静岡県浜松市三ケ日町都筑
東急猪鼻湖リゾートタウンの猪鼻湖に突き出した所
形状
平山城
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、堀、井戸、土橋、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2007/02/18
歴史等
佐久城は、室町時代、浜名地区(三ヶ日町一帯)を支配した浜名氏の居城である。浜名氏は平安末期鵺代を本拠として興起した猪鼻氏の系統を引き、「鵺(ぬえ)退治」で有名な源三位頼政の子孫といわれる。
南北朝期の浜名氏は浜名左近大夫清政で、当時浜名湖北一帯は南党の両袖・井伊道政の勢力下にあった。そうした中で、清政一人北党・足利方の属していたので、次第に圧迫されて、一時退去を余儀なくされ、伊勢・美濃にあった所領に逼塞していた。
しかし、暦応2年(1339)、北朝方による井伊攻めが始まるや、いち早く清政も馳せ参じ、高師兼麾下に属して活躍した。翌年正月、井伊氏の本拠・三嶽城(浜松市引佐町)が落ち、8月には南朝方最後の砦・大平城(浜松市浜北区)も攻略され、湖北の南朝方は一掃されてしまった。
こうして浜名清政は、再び地頭として故郷に返り咲き、室町初期の貞和4年・正平3年(1348)、それまで猪鼻湖西岸の鵺代(ぬえしろ)にあった居館を廃し、東岸のこの地に築城、居城した。
以来、子孫は足利幕府の奉公衆となり、常に京都にあって将軍の側近として活躍、又歴代歌人としても著名であった。
清政より9代目の肥前守頼広の時、永禄11年(1568)12月、徳川家康の遠州侵入にあたり守護今川氏のため当城に篭って抵抗したが、翌12年(1569)2月、力尽きて降伏して流浪の身となり、鎌倉以来の名門は滅びた。
以来、家康の部将・本多百介信俊が守備したが、天正11年(1583)東北方の野地城構築により廃城となった。
『「静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)」、「現地説明板」より』
現況・登城記・感想等
浜名湖の東急リゾートタウンの猪鼻湖に突き出した所ということで、すぐに見つかると思いきや、なかなか見つからず、結局地元の方に連れて行ってもらった。
城址は本丸(本曲輪)と南曲輪が残っているだけではあるが、空堀や土塁等々がよく残っており、小さいながらも見応えのある城址である。
駐車場のすぐ横に説明板が立っており、そのすぐ横が空堀になっている。その空堀を登って行くと大きな空堀に出る。そこを右の方へ登ると馬出曲輪へと出る。
この馬出曲輪は武田氏の城郭でよく見られる丸馬出とよく似ている。馬出曲輪と本丸虎口との間にはかなり深い空堀が掘られており、幅約2m、長さ約7~8mほどの土橋で接続している。このあたりが、この城の最大の見所であろう。
虎口から中に入ると楕円形の本丸跡に出る。本丸は、南北約70m、東西約30mの広さで、東側と南側には高さ1m~3mほどの土塁が周っている。湖に面する西側は断崖絶壁になっており、北側には搦手口があり、かなりの段差になっている。
(2007/02/18登城して)
ギャラリー
佐久城絵図(現地説明板から)
㊧登り口の空堀、㊨馬出への登城道
説明板が立っており、そのすぐ横の㊧空堀を登って行くと、さらに大きな空堀に出る。そこを右の方へ登る(右写真)と馬出曲輪へと出る。
㊨登り口に一部石垣があったので、地元の人に「往時のものか?」と聞いたら、「多分そうでしょう」とのこと、あまり興味なさそうであった。
馬出
この馬出曲輪は武田氏の城郭でよく見られる丸馬出とよく似ている。
土橋
馬出曲輪と本丸虎口との間にはかなり深く、広い空堀が掘られており、幅約2m、長さ約7~8mほどの土橋で接続している。このあたりが、この城の最大の見所であろう。
土橋横の空堀
かなり広くて、深く、本丸の下の方まで落ち込んでいるようであった。
本丸虎口
本丸
本丸は、楕円形をしており、南北70m、東西30mの広さである。
石碑
石碑の後ろ側は湖で、断崖絶壁になっている。
搦手口
搦手の向こうは、多少急崖ではあるが、削平地部分までそれほどの高さではなかった。
㊧井戸跡、㊨館跡
㊧井戸は、直径2m、深さは現在数mであるが、当時は20m内外あったと思えはれる。
㊨搦手口の前が館跡となっており、有力武士の居館があったと説明板にあったが、礎石も何もなくよく分からなかった。
㊧本丸東側の虎口横の土塁、㊨南側の土塁 (本丸を丸く囲んでいる)
佐久城遠景
猪鼻湖の東岸に突き出した半島状の湖岸段丘上にある。