遠江 野地城(浜松市三ケ日町)

みかん畑の中に残る堀

家康が浜名氏の佐久城を攻略し、本多信俊に命じ築城、一時忠勝が居城

所在地

静岡県浜松市北区三ヶ日町都筑
(旧静岡県引佐郡三ヶ日町野地)
【行き方】
天竜浜名湖鉄道「都筑駅」から国道362号で150m程東進した「野地」信号を南へ入る。 100m程南下した2本目の路地を右折し猪鼻湖に突き出た先端が城跡。

形状

平城

現状・遺構等

現状:みかん畑他
遺構等:曲輪、土塁、堀、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2007/02/18

歴史等

永禄12年(1569)2月、徳川勢は敵対し続ける浜名頼広の居城佐久城を攻略し、 本多信俊が在番となって湖北の押さえについた。
徳川家康による遠州支配が安定してくると、城の用途も戦闘に備える拠点てしてではなく、軍団の移動の際の宿営地としての利用が主となり、 街道筋から離れた佐久城は不便であった。 そこで家康は、天正11年(1583)、本多信俊、上村庄右衛門を奉行に任じ、街道に近い場所に築城を命じた。それが野地城である。
城主は本多忠勝、本多信俊、本多信勝、三浦為春と続いた。
慶長期になると家康は上洛、下向の際に寄留地として利用し、その度に城は増築拡大されていった。元和5年(1619)以降は市野、彦坂、 米倉らの各氏が代官として城を預かった。
家康没後も幕府がこの城を必要としていたのである。寛永3年(1626)には三代将軍家光の上洛休憩所として利用され、 御茶屋御殿が造立されている。
その後も城は半世紀以上にわたり維持され続け、延宝8年(1680)にいたり幕府は廃城を決定した。その際に建物、器具類は荒井(新居) 関所へ移されている。
『サイト・史跡夜話・野地城(http://www15.ocn.ne.jp/~yawa/menew/totoumi/shiseki/seien/noji.j/noji.j.html) より

現況・登城記・感想等

今日は、浜松時代の同僚・K米さんに付き合ってもらっての登城である。
野地城は猪鼻湖に突き出た岬の先端に位置しており、場所の特定はすぐ出来るが、なにぶん道が本当に狭く、 駐車出来そうな所も見当たらず困った。しかし、湖畔沿いの細い道からみかん畑へ入る空地(道?)があったので、作業時期でもないし、 ちょっと失礼して駐車させてもらった。
みかん畑は相当な広さで、何処が何処やら分からず、うろうろしていた時に、久米さんが「野地城址」の石碑が見つけた。また、 近くにフェンスで囲まれた中に「縣民歴代之奥都城」と彫られた石碑が建っていた。そして、そのすぐ傍には堀が残っていた。堀は、 みかん畑のあちこちに残っているようである。
みかん畑は迷子になりそうなくらい広く、これが城域とすると、かなりの広さである。
何人もの人の大きな声が聞こえるので、そちらの方へ行ってみると、広い広場(グラウンド)があり、多くの人がゲートボールを楽しんでいたが、 そこが本丸跡のようだ。そこに簡単な説明板が立っており、本多平八郎忠勝がこの城の築城者の一人である旨が記されていた。
この後、訪ねた佐久城で会った地元の方の話によると、かなり最近まで遺構等が相当残っていたとのことである。また、金の茶釜が発掘され、 地元に、それを所持している人がいるとのことである?ほんまかいな???
(2007/02/18登城して)

ギャラリー

野地城址は一面のみかん畑に
みかん畑は相当な広さで、最初は何処が何処やら分からず、 遺構が見つかるか心配だった。

㊧「野地城址」の石碑、㊨「縣民歴代之奥都城」 の石碑
幸運にも㊧の石碑が見つかった。そして㊨の石碑がフェンスに囲まれていた。
 

堀跡①
はっきりと分かる堀跡があった。 往時は水堀であったようだ。

堀跡②
これは自然の地形に少し手を加えたものか?

㊧本丸跡と、 ㊨本丸片隅にあった説明板
本丸跡は町民の為のグラウンドになっており、ゲートボールを楽しむ人達が。 その隅の方に「本多平八郎忠勝が築城したとの説明板」があった。地元の方には失礼であるが、こんな所に一時とはいえ、 忠勝がいたとは驚くと同時に、なんか嬉しくなってきた。
 

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