一生吹山城主郭跡の公園(毘沙門天や神社もある)
佐倉城主小林重則が峯城主峯盛定を迎え撃ち散った城
別名
智積城(ちしゃくじょう)
所在地
三重県四日市市智積町字一生吹山(いっしょうぶきやま)
国道477号線と県道625号線が交わる信号を西進し、近鉄湯ノ山線「高角駅」の北西の踏切を渡り、
さらに600~700mほど進むとエビノ園の南側へ出る。そこから、エビノ園とインターゴルフ場の間の道を、
さらに道なりに西へと登って行くと右手に「一生吹山配水池」があるので、これを過ぎてすぐを鋭角に右折し(一生吹山の案内あり)、
進んで行くと公園(一生吹山毘沙門天等もある)へ出る。公園前に駐車可能。
形状
山城(標高109.6m)
現状・遺構等
現状:四日市水道局配水池、公園、一生吹山毘沙門天、神社など
遺構等:土塁、切岸、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2010/11/29
歴史等
正平24年・応安2年(1369)南朝方の伊勢国司北畠顕能の子顕泰は、北朝方の伊勢守護土岐頼康を刑部郷の戦闘で撃退させた後、
直ちに北朝方の再侵攻に備え、三重郡の武将に要害を築かせた。この時、小林丹後守重利は一生吹山(いっしょうぶきやま)に砦・山城を築いた。
近隣では、矢田蔵人入道(山田城)、諏訪十郎(楠城)
、志村左衛門尉(曽井城)、石河右馬大輔(水沢城)
、川島宮内少輔(小山田城)、有山主馬助(川尻城)が築城・補修をし、
これら武将の総大将に南朝の忠臣千種忠顕の子顕経が任じられ禅林寺城にて三重郡を統率した。
但し、近年の学説では「千種氏の北伊勢での活動は16世紀前後に始まる」とされる。
170年後の天文8年(1539)、峯城主峯大和守盛定が3千とも言われる大軍を率いて、当地に接近してきた。それに対して、
小林豊前守重則は居館佐倉城を出て、かねてより修復しておいたこの一生吹山城で、敵将・峯大和守盛定と対峙した。
しかし、多勢に無勢、しかも頼みの千種氏も、近江の六角定頼と結んだ員弁郡の梅戸氏と、
安濃郡の長野氏と結んだ朝明郡の朝倉氏との対立していたため援軍を出せず、遂には刀折れ矢尽き矢合川(やごうがわ)北岸で自刃した。
時に重則は僅か18歳、自刃して果てた地を後に殿原と呼び、旧名生水川(しょうずがわ)
を矢合川と改めて激戦の様子を偲ぶよすがとしたという。
『「サイト・桜郷土史研究会」、
「現地説明板」より』
*詳細は桜郷土史研究会を参照して下さい。
四日市市桜地区の歴史を非常によく調査・研究されております。
現況・登城記・感想等
周囲が急崖となっている立地は、中世山城の雰囲気があるかな?
公園(毘沙門天や神社等もある)と水道局配水池がある所が主郭で、公園の南方に土塁が僅かに残り、公園周囲、
特に北から東側にかけて顕著に切り立ち、切岸跡のようだ。
(2010/11/29登城して)
ギャラリー
一生吹山城跡遠景
切岸
公園周囲、特に北から東側にかけて顕著に切り立ち、中世城郭の雰囲気がある。