城址に残る唯一の遺構「髪のびの井戸」
織田信長の連合軍を相手に5年間も持ちこたえた北勢一の要塞
所在地
三重県四日市市萱生町字城山(暁学園)
暁学園:四日市市萱生町238、電話059-337-2345
形状
平山城(標高55m)
現状・遺構等
【現状】 暁学園
【遺構等】 井戸、標柱、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2011/02/26
歴史等
文治年間(1185~90)、富田館に居を構えていた伊勢平氏の富田家資は、平氏再興を図って捕えられたが、源頼朝に一命を助けられ、武蔵国春日部に住んだ。そして、その子孫が、萱生に移住後も春日部氏を名乗ったと伝えられる。
萱生城は、隼人正春日部宗方が築き、数代居城した。
俊家の時の元亀2年(1571)5月に始まった伊勢長島一向一揆の鎮圧に先立って、永禄11年(1568)に織田信長軍本隊の先鋒隊として派遣された羽柴秀吉・滝川一益の連合軍により攻撃を受けた。
北勢三家衆の勢力頭として近隣の土豪を従えて活躍していた俊家は、織田連合軍を向こうにまわして5年間も奮戦したが、兵糧も尽き、手負いの将兵の傷も癒える間もないまま、天正元年(1573)の総攻撃により炎上し、北勢一の要塞・萱生城も灰燼に帰した。
天正12年(1584)、織田信雄は佐久間正勝に萱生城を守らせ、羽柴秀吉に備えたという。
『「現地説明板」、「日本城郭大系10」より』
現況・登城記・感想等
萱生城は、北勢48家でも随一の要害であったというので、以前から登城したいと思っていたのだが、今では、女子校になってしまって登城し辛い。どうも、小学校と女子校は苦手だが、土曜日で休みで何とかなるだろうと思い登城した。
萱生城址に近づくと、如何にも北勢随一の要害であったことが理解できる急峻な丘が見えてくる。
予想通り、校門脇に関係者以外立ち入り禁止(御用の方は連絡云々)の看板が(汗)。
しかし、校内の片隅に残るという井戸跡の写真を撮るだけだからと、構わず入って行った。
目指す井戸跡は、急坂(こんな急坂を毎日昇り降りする生徒は大変だろう)を登りきった所にあり、すぐに見付かった (*^_^*)。
井戸の中を覗いてみたが、結構深いようで、底は見えなかった。大急ぎで写真を撮って引き返した。取り敢えず満足 (*^_^*)。
(2011/02/26)
ギャラリー
萱生城址全景
萱生城址に近づくと、如何にも北勢随一の要害であったことが理解できる急峻な丘が見えてくる。
土塁?と「髪のびの井戸」の標柱
学校グラウンドへの急坂を登りきった所の正面に、土塁のように一段高い所に「萱生城跡・髪のびの井戸」と書かれた標柱が立っているのがすぐに見付かり、ホッ (*^_^*)。
「髪のびの井戸」
織田信長軍本隊の先鋒隊として派遣された羽柴秀吉・滝川一益の連合軍により攻撃を受け、城が炎上する中、女人集の多くは落ち延びようとせず、この井戸に身を投じたという。それ以来、いつからともなく、この古井戸に姿を映す人は髪が伸びると語り伝えられるようになったという。
髪が伸びるのではなく、増えるのなら私も井戸に姿を映したいものだが・・・(笑)。
萱生城殉難者供養碑
井戸の横には、「殉難者の碑」も建てられている。