僅かに残る土塁
伊勢国司北畠氏の一族として勢力を誇った木造氏の本城
別名
木造御所
所在地
三重県津市木造町1059
【アクセス】
木造神社の東側の道を300~350mほど北進し、右折し300mほど東進すると道路の左手(北側)にこんもりした塚が見える。ここに、塚の上に石碑や説明碑が立っている。
形状
平城
現状・遺構等
【現状】 田園
【遺構等】 土塁、石碑、説明碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2011/04/21
歴史等
木造氏は北畠氏の一族で、北畠顕能(親房の三男)の二男顕俊が正平21年(1366)、現在、城址碑が立つ塚の南西約300mのところに城を築き、姓を「木造(こつくり)」と改め、初代城主として一帯を支配した。
2代俊康は、足利幕府と親しく、南北朝期の対立時も、南朝方の伊勢国司北畠満雅の呼び掛けに応じなかった。そのため、木造城は波瀬城主木造雅俊に攻められ、その支配下に置かれてしまった。
しかし、俊康は足利将軍の加勢を得て、再び奪い返し、それ以後は、南朝方の一族とは相対立して将軍家に属し、国司満雅が岩田川の戦いで討死し、和議するまで南朝方と戦った。それと同時に木造家は勢力を増し、牧城や川方城を築いて、それぞれに分家させ本城を守る砦とした。
そして、7代俊茂の時の享禄元年(1528)に、現在城址碑が立つ塚の辺りに新城を築き移った。
9代具政は国司北畠晴具の三男で、木造家の養子となり、天文23年(1554)家督を子長政に譲り、隠居所として戸木城を築いた。
永禄12年(1554)具政・長政父子は、伊勢に侵入してきた織田信長から南伊勢の案内を頼まれて信長に属し、その後、北畠家を継いだ信雄(信長の二男)に仕えた。
本能寺の変で信長が斃れた後の天正12年(1584)、信雄と秀吉の対立により、秀吉軍に攻められ、木造氏一族は6ヶ月にわたり戸木城に籠城したが、信雄と秀吉の和睦が成立し、長政は城を明け渡して田辺城(現いなべ市)に移り、木造城と戸木城は廃城となった。
『「現地説明板、説明碑」、「日本城郭大系10」他参照』
現況・登城記・感想等
国司北畠氏の一族として勢力を誇った木造氏の本城も、今では一面に広がる田園の真ん中に土塁が僅かに残り、そこに石碑と説明板が立っているだけである。
(2011/04/21訪れて)
ギャラリー
田園地帯の真ん中に僅かに残る土塁
木造の集落から向かうと一面に広がる田園の真ん中に塚が見えてくる。
塚の上に立っている城址碑と説明碑