天守台石垣
関氏の一族・神戸利盛の築城、信長が伊勢侵攻後、三男信孝を入れる
所在地
三重県鈴鹿市神戸本多町、神戸高校の西の公園
神戸高校:鈴鹿市神戸4-1-80、電話059-382-0071
形状
平城
現状・遺構等
現状:神戸城址公園、神高校他
遺構等:天守台、石垣、堀、土塁、移築太鼓櫓(鈴鹿市・蓮華寺内)、移築大手門(四日市市・顕正寺内)石碑、説明板
蓮華寺:鈴鹿市東玉垣町994、電話059-383-4507
顕正寺:四日市市西日野町2970、電話059-321-0225
満足度
★★★☆☆
訪城日
2002/04/30
2008/09/25
歴史等
南北朝時代の貞治6年・正平22年(1367)、亀山城主の関盛政は、
5人の男子をそれぞれ領内に配した。この5人を関の5大将と呼ぶ。
この時、長男盛澄は、神戸(かんべ)に沢城を築き神戸氏と称した。
以後、200年にわたって神戸氏がこの地を領したが、戦国時代の天文年間(1532~54)、具盛のとき、
新たに現在の地に神戸城を築いて移ったと見られる。
永禄10年(1567)織田信長が北伊勢に侵入を開始すると、7代目城主友盛は、前衛の高岡城の備えを固めてこれを防いだ。
攻めあぐねた織田軍はいったん兵をひき、翌年、信長の三男信孝を友盛の養子にすることを条件に和議を結んだ。
友盛は元亀2年(1571)沢城に隠居し、
信孝が城主になった。
信孝は天正8年(1580)から城の拡張工事を開始し、金箔の瓦を用いた5層の天守閣が聳える、南北約600m、
東西約900mの城郭を完成させた。
しかし、天正10年(1582)の本能寺の変後、岐阜城に移り、
翌年秀吉と対立して、知多半島で自害して果てた。
そして、神戸城主は、小島氏、林氏、生駒氏、滝川氏、水野氏とめまぐるしく替わり、文禄元年(1592)から約10年間豊臣領となった。
文禄4年(1595)には天守閣も桑名城に移され、
江戸時代を通して天守閣は造られず、石垣だけが残った。
江戸時代、城主は一柳直盛、石川氏3代を経て享保17年(1732)本多忠統が入国し、7代忠貫まで140年間続き明治を迎えた。
『「現地説明板」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」より』
現況・登城記・感想等
神戸城址は本丸周辺が城址公園として綺麗に整備され市民の憩いの広場となっている。
神戸城址の見どころは何と言っても天守台石垣である。
その無骨で荒々しい野面積みの石垣は、どっしりとした印象を受け、戦国時代末期を偲ばせる。また、
さすが5層の天守閣を乗せていただけあって、規模も大きく存在感がある。
本丸を囲む土塁や水堀の一部も残っている。
約6年半ぶりの登城であったが、どういう訳か、今回の方が印象深く感じられたのは何故だろう?
(2008/09/25登城して)
ギャラリー
神戸城縄張略図(現地説明板より)
天守台
天守台野面積み石垣
天守台への石段
天守台上部
城址碑
本丸を囲う土塁(天守台上から撮影)
水堀
移築大手門(㊧表側、㊨内側から)
さすが大手門、随分大きくて立派な高麗門である。
移築太鼓櫓(鈴鹿市・蓮華寺内)