満々と水を湛えた吉ノ丸堀
関ヶ原合戦後、本多忠勝が入封、幕末の藩主定敬は会津藩主容保の弟
別名
旭城、扇城
所在地
三重県桑名市吉之丸、九華公園
形状
平城(海城)
現状・遺構等
現状:九華(きゅうか)公園
遺構等:石垣、天守台、堀、郭跡、移築城門(桑名市・了順寺)、復元櫓、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2003/05/03
2010/01/25
歴史等
桑名の地に城が築かれたのは、文治2年(1186)鎌倉幕府の命により、伊勢平氏の桑名行綱が当地を支配したことに始まるといわれている。
天正2年(1574)織田信長が伊勢を平定すると、信長の重臣・滝川一益の所領となり、一益は長島城を修築して入り、桑名の緒城は家臣に守らせた。
同19年(1591)一柳直盛が入封し、この時初めて桑名城を築いたという。
文禄4年(1595)、氏家行広が城主となったが、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦で西軍に属し、敗北したため無血開城。
慶長6年(1601)、本多忠勝が上総大多喜から10万石で移ってきた。忠勝は入封すると、ただちに巨大な築城の工事を起し10年近くを要して慶長15年(1610)にほぼ完成した。櫓数51、多聞46、水門3ヶ所という立派な城で、雑然とした船渡し場だった町を城下町に立て直した。桑名の町並みはこの時ほぼできあがったといわれている。
城のほぼ完成した慶長15年(1610)に忠勝は没し、子忠政が継いで城主となったが、元和3年(1617)忠政は姫路15万石に転封となった。
その後、久松松平氏、次いで奥平松平氏が入り、7代113年在城した。
文政6年(1823)、久松松平氏が再封し、以後、久松松平氏4代の居城として明治維新を迎えた。桑名藩は慶応4年(1868)の戊辰戦争の際に、藩主定敬は鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕府軍と共に江戸へ逃げ延び、桑名城は藩主不在となった。城内は恭順か抗戦かの激論となったが、最終的に討幕軍に恭順し、桑名城は無血開城したが、討幕軍はこの際に桑名城を焼き払い開城の証とした。この時、三層の辰巳櫓なども焼失した。
尚、寛永12年(1635)に美濃大垣から入封した松平定綱の時に築かれた天守閣は四重六階の勇壮なものであったが、元禄14年(1701)の大火で焼失し、以後は再建されなかった。
『日本城郭大辞典(新人物往来社刊)参照』
現況・登城記・感想等
城址は市民の憩いの公園として綺麗に整備され、散歩をする多くの人を見かける。
遺構といえば、満々と水を湛えた幅の広い多くの堀、本丸跡に天守台、神戸櫓跡、辰巳櫓跡、そして二の丸堀の一部や海沿いに僅かに石垣などが残っているだけではあるが、往時は海(実際は揖斐川河口)に浮かぶ本当に綺麗な水城だったんだろうなというのが窺い知れる。
(2003/05/03、2010/01/25登城して)
ギャラリー
桑名城絵図(現地説明板より)
本多平八郎忠勝の銅像
満々と水を湛えた非常に広い吉の丸堀
二の丸堀
桑名城は官軍によって徹底的な破壊を受け、石垣は四日市港築造の資材として払い下げられたという。その中ではこの二の丸堀には石垣が僅かに残っている。
本丸から二の丸を
二の丸から本丸方面を
二の丸と本丸間には朱塗りの橋が架けられ、途中には東屋が建てられている。東屋の向こうに辰巳櫓跡、左奥に神戸櫓跡が見える。
辰巳櫓跡
本丸の東南角にあり、三重櫓であった。元禄17年(1701)に天守閣が焼失し、再建されなかったので、以後は辰巳櫓が桑名城のシンボル的な存在であった。このため、明治維新の時に、降伏のしるしとして新政府軍に焼き払われた。現在、櫓台の上に大砲が置かれているが、由来等は不明とのことである。
神戸櫓跡
戦国時代、この付近には伊藤武左衛門が治める東城があったとされる。織田信長の伊勢侵攻の時、伊藤氏は降伏し、東城は廃されたものと思われる。
文禄の頃(1592~1596)一柳直盛が城主となると城郭が築かれ、その時に神戸城の天守閣を移したといわれている。江戸時代、本多忠勝は城を拡張し、本格的な近世城郭を築いたが、神戸城の天守閣は櫓としてそのまま残され神戸櫓と呼ばれた。
天守台
本丸跡には護国神社が祀られているが、その横(東)に天守台が残っている。天守閣は寛永12年(1635)に美濃大垣から入封した松平定綱により築かれたが、元禄14年(1701)に焼失し、その後は再建されなかった。4重6階の勇壮なものだったという。
復元された蟠龍櫓
揖斐川河口にある七里の渡しに面して建てられていた蟠龍櫓は、東海道を行き交う人々が必ず目にする桑名のシンボルであった。広重の東海道53次でもこの蟠龍櫓が描かれている。
七里の渡し(左奥に蟠龍櫓)
石垣
七里の渡し跡から陸側へ入ると、今も多くの舟が停まっていた。ここの石垣は、往時のものであり、県指定史跡になっている。