本丸虎口付近の石垣
九鬼水軍の本拠の海城
別名
錦城
所在地
三重県鳥羽市鳥羽、城山公園
鳥羽水族館の(西)後方の山
形状
平山城(海城)
現状・遺構等
現状:城山公園、小学校、市街地
遺構等:曲輪、石垣、
満足度
★★★☆☆
訪城日
2004/02/08
歴史等
九鬼氏の祖はよく分かっていないが、紀伊熊野地方の豪族八氏中のいずれかと云われる。志摩にやってきたのは隆良の代といい、
隆良を初代とすれば、6代目が嘉隆である。
各代の苦闘を経て、元亀元年(1570)嘉隆が、織田信長を後ろ盾にして、ほぼ各氏を服属させ、ようやく志摩を統一した。そして、
鳥羽殿と尊称されていた名族橘氏の婿となり地位を継いだ。
その後の嘉隆は、信長、秀吉の水軍の将として近畿、四国、九州、関東のみならず朝鮮へと非常に忙しく活躍した。
中でも石山合戦で苦戦していた信長が、毛利水軍に対抗するため、
鉄板張りで三門の大砲を備えた戦艦を嘉隆に建造させ大勝したという話は有名である。
文禄3年(1594)嘉隆は鳥羽城を大修築して三層の天守を築き、水軍の将にふさわしい海城を築きあげた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に際して、嘉隆は西軍に属し、嘉隆の嫡子守隆は東軍の徳川家康方についた。戦後、
守隆は家康から父の助命を許されたが、嘉隆は自刃して果てた。そして守隆は鳥羽城を保つが、守隆の死に際して再び不幸が襲った。寛永10年
(1633)世継ぎをめぐってお家騒動が起こり、九鬼氏は二家に分かれて山間の地である摂津三田と丹波綾部に移封された。
取り潰しは免れたものの、海から切り離されてしまったのである。
その跡へは譜代内藤氏が入り、二の丸、三の丸を増築し、本丸にあった御殿を政庁とし、代って二の丸に御殿を築き、近世鳥羽城の完成をみた。
しかし、延宝8年(1680)、4代将軍家綱の法要の席上、当主忠勝が逆上し、奏者番同役の永井尚長を切り殺してしまい、忠勝は切腹、
内藤氏は取り潰しとなった。内藤氏の後は一時幕府直轄地となり、遠山和泉守(美濃苗木城主)
が城を預かった。
その後、土井氏、大給松平氏、板倉氏、戸田松平氏と城主は頻繁に交替したが、享保10年(1725)稲垣昭賢が下野烏山から3万石で入封。
以後、鳥羽城は稲垣氏8代の居城として明治維新を迎えた。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「日本100の城(日本交通公社刊)」参照』
現況・登城記・感想等
九鬼水軍の城であるということで、大いに期待して登城した。以前に伊勢志摩旅行の時に、2度ほど登城しようとしたが、
場所が特定出来ず断念た経緯がある。今回やっと観光ボランティアの方に教えてもらい登城することが出来た。
鳥羽水族館の前にある山がそれであった。
ほぼ登りきった所が城山公園になっており、そこからの眺望は素晴らしく眼下にリアス式海岸の鳥羽湾や島々、さらには、
船が行き来しているのがよく見え、さすが九鬼水軍の本拠地だと実感した。
そこをさらに進んで行くと、本丸北側の虎口石垣の所に出た。このあたりは昔の面影をよく残している。その上にある本丸跡は、
小学校のグラウンドになっていた。グランドの周囲をよく見ると随所に鳥羽城の石垣を見ることが出来る。
また、ここからの眺望も素晴らしいが、それよりも、周りをネットで巡らしてはあるものの、絶壁になっていて、
ボール等がネットを越えて飛び出た時に拾いに行ったりして危ないのでは等と、余計なことを考えてしまった。
また、鳥羽幼稚園のところに残る石垣と復元された城壁も、鳥羽城の面影をはっきりと伝えている。それほど、
多くの遺構が残っているわけではないが、九鬼水軍の城であるという実感を得られる城址ではある。
(2004/02/08登城して)
ギャラリー
鳥羽城址遠景
海の見える丘「城山公園」からの眺望
本丸虎口の石垣
本丸西側石垣