美濃 苗木城(中津川市)

大矢倉上から本丸を見上げる(左上に見える石垣は菱櫓石垣)

岩村城の支城として築城された遠山氏の山城、石垣群が見事

別名

赤壁城、霞ヶ城

所在地

中津川市苗木高森2799-2

形状

山城(標高:423m、比高:150m)

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:天守台、櫓台、曲輪・土塁、石垣、空堀、竪堀、堀切、土橋、枡形虎口、井戸、石碑、説明板

【国指定史跡】
指定日:昭和56年4月22日
指定理由:戦国時代の面影をとどめている近世城郭として貴重
面積:15万6,774㎡
資料館:中津川市苗木遠山資料館

満足度

★★★★★

訪城日

2004/08/11

歴史等

苗木城の創築については諸説あるが、一般的には岩村城の支城として、 遠山氏の一族遠山景村が南北朝時代の建武年間(1334~35)に築いたと云われているようである。
加藤景廉を祖とする遠山氏は室町時代に恵那郡内で勢力を拡げ、岩村城に拠る本家の岩村遠山氏を中心に 「遠山七頭」と云われる一族の結束を保っていた。中でも、中心となる岩村明知・ 苗木の遠山氏は遠山三人衆と呼ばれた。
苗木城主遠山友政は父友忠とともに織田信長に仕えていたが、天正11年(1583)、豊臣秀吉の命に背いたため、森長可の攻撃を受けたので、 城を捨てて徳川家康のもとに奔った。
その後、苗木城は川尻直次が領していたが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際、友政は家康に願い出て、 西軍に与していた直次の苗木城を攻め落とし、合戦後、軍功によって苗木城を回復、美濃国恵那・ 加茂2郡内において1万500石を与えられて立藩した。1万石クラスの大名は陣屋が普通であったが、遠山氏は城持ち大名であった。
以後苗木城は遠山氏12代の居城として明治を迎えた。
『「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「日本城郭大事典(新人物往来社刊)」参照』

現況・登城記・感想等

1万石の城主の城とは思えない素晴らしい大規模な石垣群である。正直なところ、こんなに素晴らしい城址とは想像だにしなかった。
苗木城へは城の裏手にある風呂屋門跡近くまで車で登ることが出来る。風呂屋門跡には途轍もなくでかい岩があり、 奥に入って行くと右側には急崖の天然の非常に深い空堀、左側は天然の巨石を利用した壁と石垣が。 さらに行くと正面に山城としては感激するほどの大規模な石垣群が現れた。
そこを、さらに奥へ歩いて行くと風吹門跡に着いた。風吹門の中が三の丸跡である。風吹門のすぐ横に大矢倉跡があり、 切り込みはぎの石垣と天然の巨石が見事に融合され実に「かっこいい」。大矢倉の上から見る本丸の姿も実に素晴らしい。
三の丸を通って本丸に向かって行くと左側に駈門跡・大門跡があり、右下の方に二の丸跡が見えた。 大門は領主の江戸参勤出立時等の大きな行事以外は開けず、普段は左側にある潜り戸を通行していたとのことである。 大門を入ってすぐの所に重要な品々が納められていたという御朱印蔵跡があった。
そこからは登り道である。綿蔵門跡・坂下門跡・菱櫓門跡と登っていくと菱櫓に出た。そこは的場跡とのことで帯曲輪になっており、的場・ 仕切門・八大竜王・清水門・不明門を経て二の丸に至るとのことである。やたらと門の多い城である。菱櫓は切込はぎでなく、 打込はぎの石垣ではあるものの、実に綺麗な石垣である。石垣の下に千石井戸跡というのがあり、どんな日照りのときでも水がかれたことがなく、 俗に千人の用を達したとのことである。
さらに登っていくと本丸口門跡・玄関口門跡があり山頂の本丸跡に着いた。本丸はわずか400㎡にすぎず、ここに天守・台所・居間・次の間・ 千畳敷等が構えられていたそうである。そして岩盤そのものを天守台としていたそうである。
天守跡からの眺望は素晴らしく、眼下には木曽川の流れと中津川の市街地、さらにその向こう側には恵那山をはじめとする美しい山並みが望めた。
反対側の方へ降りて行くと、本丸を支える石垣の一部として組み込まれたとてつもなく大きな岩があり、その横にも同じくらい大きな岩があった。 これが馬洗い岩なのであろう。
そこから笠置矢倉跡・二の丸へと向かったが、巨岩がいたる所にある。そして二の丸跡には礎石らしき石が一杯転がっていた。
本来の大手道である標高差150mの急峻な山道の四十八曲がり道(別名、大手口道)の方へも行きたいところであるが、 時間も遅くなったので諦めた。それにしてもいたる所で、石垣に自然巨大岩を巧みに取り込んだ素晴らしい城跡であった。
(2004/08/11登城して)

ギャラリー

苗木城の図(現地説明板より)

駐車場からの入口
駐車場から早速趣きのある登城道。石垣が曲線を描いているが、旧状通りなのだろうか?

風呂屋門への石塁

風呂屋門から入城すると、㊧左側に巨岩と石垣、㊨右下には急崖の天然の空堀が
 

本丸石垣群が見えてくる
さらに進むと正面に、山城としては非常に大規模な本丸石垣群が見えてきて感激ものだ!

風吹門
風吹門の左横には大矢倉の石垣が。風吹門を入ると三の丸である。

大矢倉の上へ登る

大矢倉台上から本丸を
大矢倉上から眺める本丸跡の姿は、菱矢倉の石垣をはじめ、なかなかのものだ。

大矢倉石垣

馳門跡の枡形石垣
遥か下の方に木曽川に架かる鉄橋が見える。

大門跡と奥に御朱印蔵跡
苗木城で一番大きな大門は二階建てで、二の丸と三の丸を仕切っていた。門の幅は2間半、 二階部分は物置に利用されていた。領主の江戸参勤出立などの大きな行事以外は開けず、普段は左側(東側)にある潜り戸を通行していた。
御朱印蔵は、切石できっちり積まれた石垣の上に建てられていた御朱印蔵は、領地目録ys朱印状など重要な文書や刀剣類が納められていた。 蔵への出入りには、梯子が使用された。

綿蔵門跡
大門跡を進んで行くと、またすぐ門跡へ出る。綿蔵門である。この後にも坂下門、菱櫓門とあるが、 それらは省略する。
本丸へ上る道を遮る形で建っていた綿蔵門は、夕方七つ時(午後4時)以降は扉が閉められ、本丸には進めなかった。門の名の由来は、 年貢として納められた真綿が門の二階に保管されていたことからきている。

二の丸跡
右下に二の丸跡が見える。石がいっぱい転がっている。多分、建物の礎石などだろう。

二の丸跡から本丸石垣群を①
それにしても見事な石垣群である。とても1万石大名の城とは思えない!

二の丸跡から本丸石垣を②
左側の坂道は、綿蔵門方面へ出る。

菱櫓石垣(手前に千石井戸跡)
菱櫓は切込はぎでなく、打込はぎの石垣ではあるものの、実に綺麗な石垣である。 石垣の下に千石井戸跡というのがあり、どんな日照りのときでも水がかれたことがなく、俗に千人の用を達したとのことである。

本丸への登城道から大矢倉石垣を

玄関口門
やたらと門の多い城であるが、やっと最後の門へ

いよいよ本丸上へ

天守台の土台として使われていた山頂の巨大な岩

天守跡からの眺望
眼下に木曽川の流れと中津川市内、向こうには恵那山が。

本丸石垣に巧みに組み込まれた巨岩
 

本丸南下の腰曲輪から本丸への石段

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コメント

長谷川伸八(2011/07/03)

掲載されている沢山のショットを見て、なるほど貴兄が推薦されるだけの価値が十分あることを実感!さすがに明治まで生き続けた城であったただけに城跡の保存状態が完ぺきで、岐阜県にこのような城跡が残っていたことに驚きを感じます。 夜が明けて家内に見せたらさぞ驚き喜ぶことでしょう。

タクジロー(2011/07/04)

長谷川様
コメント有難うございます。
苗木城は、本当にお薦めの城址で、私も、また再登城したいと思っています。

苗木 安孝(2011/09/28)

私は、栃木県の岩舟町に住んでいます。祖父母から昔苗木一族は城を持ち落城に会い徳川家を頼りこの地に住みついたと聞きました。また、その一族の一部が二手に分かれて浜名湖方面に逃げ延びたとも聞いています。いずれこちらも調べてみたいと思っています。苗木城跡も行ってみて大変感動したのを思い出します。苗木家のルーツとして、大変夢のある事なので詳しく知っている方が居ましたら、是非教えてください。

タクジロー(2011/10/01)

苗木安孝さま
ご訪問ありがとうございます。
由緒ある家系でスゴイですね。
苗木遠山氏については、申し訳ありませんが、「秀吉方の森長可に攻められ、家康を頼って落ち延びた」ことくらいしかわかりません。
今後とも宜しくお願いします。

井上高明(2012/05/09)

城ファンとして改めて知らないことが多いことを知りました。ありがとうございます。

タクジロー(2012/05/12)

井上様
当サイトへのご訪問とコメントを有難うございます。
井上さまのブログも、早速、拝見させて戴きました。
大変なGファンのようですね。随分、楽しませて戴きました。
今後とも宜しくお願い致します。

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