本丸跡に立つ城址碑と説明板
「遠山の金さん」の祖・明知遠山氏の築城、明智光秀ゆかりの城という伝説も
別名
白鷹城、明智城
所在地
岐阜県恵那市明智町城山
形状
平山城(標高:528m、比高70m)
現状・遺構等
現状:山林(県指定史跡)
遺構等:曲輪、土塁、石垣、空堀、竪堀、堀切、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2004/08/12
歴史等
明知城の築城は、宝治元年(1247)源頼朝の重臣加藤景廉の孫である明知遠山氏の祖・遠山景重といわれる。
戦国時代の遠山氏は、岩村城に拠る本家の岩村遠山氏を中心に
「遠山七頭」と云われる一族の結束を保っていた。中でも、中心となる岩村・
苗木・
明知の遠山氏は遠山三人衆と呼ばれた。遠山氏は、織田氏・武田氏に挟まれ、その中で微妙なバランスをとっていた。
ところが、元亀元年(1570)頃から、織田氏・武田氏の間が緊張してきた。
元亀2年(1571)岩村城城主遠山景任の病死を機に、
遠山氏は織田信長に従った。
翌3年(1572)、武田信玄が上洛の軍を起こした。武田軍は、山県昌景の先鋒隊と信玄本隊との軍団を2手に分けて、
東三河に向けて出発したが、この西上に際しては、もう一つ別に、信濃飯田の城将秋山信友率いる信濃勢の別働隊があり、
この別働隊は東美濃へと侵攻し、岩村城を攻略し、
12月には明知城も落城させ、遠山氏は武田方となった。
天正元年(1573)4月に武田信玄が病没し、同3年(1575)5月、織田信長は長篠の合戦で武田勝頼を破ると、
ただちに嫡男信忠に岩村を攻撃させた。
この攻撃で明知城は岩村城と共に落城した。
遠山利景は徳川家康のもとに逃れ、同10年(1582)6月の本能寺の変ののち明知城に入った。
しかし岩村城主となった森長可の勢力が強くなると、
利景は再び家康を頼って出奔した。慶長5年(1600)2月、森氏が川中島に移封となると田丸具安が岩村城主となり、
原土佐守が明知城城代となったが、同年9月の関ヶ原の戦いにおいて田丸氏は西軍に属すと見られたため、
家康に属す利景は子方景と共に明知城を奪取し、岩村城を開城させた。
この功により、利景は6700石を有し明知城主に返り咲いたが、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となり、
陣屋を山麓に置くことになった。
明知遠山氏はそのまま12代を経て明治に至った。江戸時代の名奉行・遠山の金さんは明知遠山氏の子孫である。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「現地説明板」参照』
現況・登城記・感想等
龍護寺入り口傍には「光秀出生の碑」と「光秀の墓」、城跡内には「光秀の学問所」なるものがあり、さらには、
少し離れた所にある千畳敷砦(落合砦)には
「光秀産湯の井戸」もあり、何となく嬉しくなってくる。
城跡は、あまりの藪で分かり辛かったが、非常に多くの曲輪・土塁・竪堀・横堀等が残る。冬場に登城したら、もっと楽しく散策できるだろう。
また、
龍護寺は明知遠山氏の菩提寺で遠山氏塁代の墓があり、遠山金四郎の墓がある。また、時間があれば大正村をゆっくり見て回るのも楽しいだろう。
明智町は、「大正村」と「明智光秀出生の地」の2枚看板で売り出そうとしているようであるが、もともと「明知町」でもあり、
出生地を謳うために町名を変えたようなところもあり怪しい。可児市にある「明智長山城」も確たる証拠があるわけではないが、
そちらの方がやや有力な気がする。
尤も、「歴史街道8月号(PHP研究所)・明智光秀3つの謎」の中で、作家・楠戸義昭氏は、
「私見を述べれば光秀は明智の本拠地だった長山城で育ったが、産声をあげたのは明知城ではなかったのか。明知城下に光秀産湯の井戸が伝わり、
光秀の母親とされるお牧の墓があるからだ。」とし、「光秀の母は長山城に嫁ぎ、実家のあった明知城に戻って光秀を産んだ。
そのため誕生地が2ヶ所になったと考えるとこの謎は解ける」としている。
しかし、この説もどうなんだろうか?
(2004/08/12登城して)
ギャラリー
城門の石垣跡
二の丸跡
畝堀跡?
草茫々で、よくわからないが、多分畝堀になっているのでしょう(苦笑)
猿戻し
確かに絶壁で、猿も登れないだろう。
明智光秀学問所跡???
遠山金四郎の墓
龍護寺は明知遠山氏の菩提寺で遠山氏塁代の墓があり、遠山金四郎の墓がある。
明智光秀の墓?(龍護寺入り口傍)
明智光秀産湯の井戸(千畳敷砦にて)