現存する表御門の一部
織田信長の次男信雄に始まる織田氏直系の藩陣屋
所在地
兵庫県丹波市柏原町柏原(丹波市役所柏原支所の東約300m)
丹波市役所柏原支所:柏原町柏原1、TEL0795-72-0544
形状
陣屋
現状・遺構等
現状:市街地
遺構等:表御殿の一部、長屋門、太鼓門、藩校「崇広館」、碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2008/02/05
歴史等
織田信休の旧領大和松山藩は、
信長の次男信雄が大坂の陣直後の元和元年(1615)7月に大和宇陀郡で3万5千石の領主になったことから始まる。
初代信雄のあと高長・長頼と続いたが、元禄7年(1694)家臣団の内紛に端を発して4代目藩主信武が家臣2人を殺害の上、自殺した為、
翌年(1695)幕府は宇陀の領地を没収し、藩主となっていた信休に減封の上、丹波に国替えを命じ、栢原藩が再興されることとなった。
宝永元年(1704)に大和川改修の普請を命じられるなど出費が重なり、柏原に居館が完成したのは入部後20年を経た正徳4年(1714)
のことであった。信休の築いた陣屋は背後を大内山に抱かれた最高所に位置しているが、高低の差はほとんどなく、
典型的な平地立地の陣屋遺構である。
陣屋は、4代目藩主信憑(のぶより)の時の文政元年(1818)に火災のため長屋門など一部の建物を残して全焼してしまったが、
2年後の文政3年(1820)には再建上棟式が挙行されている。
織田氏は10代176年で明治4年(1871)の廃藩置県を迎えた。
『柏原歴史民俗資料館展示資料より』
【余談】
「柏原」という地名は、明治3年の太政官布告の地名佳字化令により、「栢原」を
「柏原」に改めたものだそうだ。
それにしても、私は「柏原」も「かいばら」と読むとは知らなかった。
現況・登城記・感想等
柏原(かいばら)は山間の小さな町で、小路を散策すると、家並みや格子戸、土塀など往時の城下町の面影をよく残している。
また、陣屋の表御殿や長屋門、そしてその西200mほどの町の中に太鼓櫓が現存している。
ただ、今回の訪問時は表御殿や長屋門の周りを修築していて、長屋門の前にはトラックが停まっているは、
御殿の前庭は泥でグショグショなのには興醒めだった。
また、町の玄関口に、定時ごとに武者姿の人形が太鼓を打ち時を告げる、太鼓櫓を模したハイテクの「時打ちロボット」が設置されている。丁度、
3時だったので、櫓の窓のカーテンが上がり、メロディーと共に太鼓が打たれた。
(2008/02/05登城して)
ギャラリー
長屋門(手前)と表御殿(奥)
今回の訪問時は表御殿や長屋門の周りを修築していて、長屋門の前にはトラックが停まっているは、
御殿の前庭は泥でグショグショなのには興醒めだった。
長屋門
陣屋の正門として正徳4年(1714)に築造された。
表御殿玄関
表御殿は、初代信休により正徳4年(1714)に築造されたが、文政元年(1818)に焼失したが、
2年後の文政3年(1820)には再建上棟式が挙行されている。現存部は、再建当初の約5分の1で、書院・式台・
玄関などの公式の部分が残っている。
表御殿を㊧左側からと㊨右側から
太鼓櫓
藩政時代は大手門の付近にあったもので、内部は3層になっており、最上階には「つつじ太鼓」
という太鼓があり、登城の合図、参勤交代で江戸かた藩主が帰藩した時、時報や火事大水などの警報などに打ち鳴らされていた。
太鼓櫓を模した、ハイテクの「時打ちロボット」
町の玄関口に、定時ごとに武者姿の人形が太鼓を打ち時を告げる、太鼓櫓を模したハイテクの「時打ちロボット」
が設置されている。丁度、3時だったので、櫓の窓のカーテンが上がり、メロディーと共に太鼓が打たれた。