京都御苑の椹木口の所に乱雑に積まれた石垣の石
織田信長が造営した二条城
別名
旧二条城
所在地
京都府京都市中京区下立売衣棚・烏丸椹木
形状
平城
現状・遺構等
現状:市街地
遺構等:移築復元?された石垣、石碑、発見された石垣の説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2006/04/30
歴史等
「二条城」と呼ばれることのあるものは、複数ある。
①室町幕府第13代将軍足利義輝の居城。
②織田信長によって、室町幕府第15代将軍足利義昭の居城として作られた城。
③織田信長が、京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸。
④徳川家康が、京に滞在中の宿所として作った城。
現存する二条城は、
④の城である。①と②は同じ場所に作られたが連続性がない。②の二条城と③の二条城は同じものと見る説もあるが
『信長公記』その他の史料を根拠として別のものとする説が通説となっている。①②③について「二条城」
と呼ぶのは④が完成した江戸時代以降のことであり、④と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと呼ばれることもある。
この二条城は、②に相当するものである。
永禄11年(1568)織田信長は、15代将軍・足利義昭を奉じて入洛を果たした。
当初、義昭は本國寺を仮御所としていたが、永禄12年(1569)三好勢の襲撃を受けたため、織田信長は同年2月に築城を始め、
2ヶ月半で完成させた。建設にあたり本國寺が解体され、その調度品などが運び込まれ、石垣には公家屋敷や寺社から墓石・石仏・五輪塔・
石灯籠・庭石等を強奪し利用された。
足利幕府滅亡後は、信長の宿所に充てられたりしたが、天正7年(1579)誠仁親王の居館として新たに新二条御所(二条殿)を造営し、
この二条城は解体され新御所の建材・石材となった。
地下鉄烏丸線工事に伴う調査で、堀の石垣が4ヶ所で発見され、一部石垣は、京都御苑の椹木口の所に乱雑に積み上げられている。その他は、
烏丸通の地下に現状保存されている。尚、平安女学院の一角(下立売通・衣棚通)に旧二条城の石碑がある。
『「サイト・フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)」、「現地案内板」参照』
現況・登城記・感想等
全ては、地下に眠るといったところでしょうか。地下鉄烏丸線工事中に石垣跡が発見されたとのことであるが、その一部の石垣が、
京都御苑の片隅に、いかにも適当に積まれているといった感じである。
当日のメインは、どちらかというと御苑内の北にある、枝垂桜であった。今年は、関西の桜の開花が遅れているようであったが、ここの桜は、
京都でも他よりちょっと早目に咲くので期待していたが、満開とまでは行かないが、予想通り綺麗に咲き誇っていた。
(2006/04/03登城して)
ギャラリー
二条古城の石碑
平安女学院の一角
「下立売通・衣棚通」にある。
一部石垣
地下鉄烏丸線工事に伴う調査で、
堀の石垣が4ヶ所で発見され、京都御苑の椹木口の所に乱雑に積み上げられている一部石垣。その他は、烏丸通の地下に現状保存されている。
地下鉄烏丸線工事に伴う調査で、
堀の石垣が4ヶ所で発見された場所
水色の所がそれで、今も烏丸通りの地下に現状保存されている。
赤丸が一部石垣が積まれている場所。
京都御苑内(北部)の枝垂桜