南西角の算木積みの高石垣
六角氏重臣後藤氏の城、観音寺城防衛の出城か
別名
佐野山城、佐生日吉城
所在地
滋賀県東近江市佐生町、五個荘日吉町
【行き方】
佐生城への、一番分かり易い登城道は「能登川ひばり保育園」の南にある上山天神社の鳥居の奥の道から「北向岩屋十一面観音」
へ至る急斜面で九十九折の登山道を700mほど車で登ると「十一面観音」の石段下に駐車場がある。ここに「佐生日吉城370m」
の案内板がある。ここからは、ほとんど下り坂である。
形状
山城(標高158m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、石垣、竪堀、堀切、土橋、石碑
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2010/02/07
歴史等
佐生城(さそうじょう)は観音寺城が構えられた繖山(きぬがさやま)の北方に派生する佐生山山頂に築かれている。
城主は、佐々木六角氏の重臣で、東近江市中羽田に居館を構えていた後藤氏であった。
後藤氏は、新藤氏とともに「佐々木の双藤」と称される重臣であり、六角義賢(承禎)から家督を継いだ義治が、観音寺城内で後藤賢豊を謀殺したことにはじまる、
観音寺騒動でも知られる。
佐生城は、後藤氏の居館から12kmも離れており、詰の城とは言い難く、後藤氏が城主というよりも、
守備大将として城を預かっていたと考えられる。
つまり佐生城は、和田山城や箕作山城とともに、北方からの進撃に対して、観音寺城防衛戦略の一角として後藤氏が築いた城であったと思われる。
佐生城が小規模な単郭構造の城であったにも関わらず高石垣を築いている点でも、ここが総石垣造りの観音寺城の出城的機能を担っていたことを裏付けている。
『「近江の山城・中井均著(サンライズ出版刊)」、「日本城郭大系11」等参照』
現況・登城記・感想等
佐生城(さそうじょう)は、東西約60m、南北約40mの三角形をした基本的には単郭構造の小規模な城郭であるが、
南面の高さ2m~4m、長さ50m近い石垣は見事である。
特に、西端部は、屈曲して横矢がかかるようになっており、隅石には巨石が用いられた算木積みの本格的な石垣である。
この石垣だけでも必見である。
東側は虎口となり、この両側にも石垣が残っている。石垣が築かれているのは、南東面だけなのか、北側側面へ廻ってみたが確認できなかった。
主郭内は低い土塁で囲まれた浅いすり鉢状になっており、中央に「後藤但馬守城址」の石碑が立っている。
(2010/02/07登城して)
ギャラリー
登城口
「北向岩屋十一面観音」の石段下に駐車場がある。ここに「佐生日吉城跡370m、佐生集落865m」
の案内板がある。ここからは、ほとんど下り坂である。
巨岩の関所?
登城口から下り坂を歩き始めて4分ほど経つと、天然の虎口のような巨岩が現われる、
さらに1~2分ほど下ると、またまた巨岩の虎口?が現われる。この西尾根には、堀切など一切なく、唯一この巨岩が防衛施設? 下り坂なので、
逆に、敵にここに詰められたらひとたまりもない感じだ。
突然、石垣が
さらに尾根を下って行く。あまりにも下り坂ばかりなので心配になってくる頃(上2つ目の巨岩から約4分)、
突然、目の前に石垣が現われ、ホッとする。
算木積みの石垣
石垣に近寄って見て見ると、角の部分はバラツキはあるが、巨石を用いた算木積みの本格的な石垣である。
高さも4m近くあり、高石垣といえるだろう。右奥(南面)を見ると、石垣は長~く続いている。
石垣の長さは50m近い
南面の石垣は、50m近くも続き、西部分は5mほどの切岸の上に築かれている。
南面の石垣を東から
南面石垣は、西部分が切岸の上に築かれているのに対して、東部分は犬走り?の上に直接築かれている。
東側の虎口
郭への虎口は(写真の右の方)、東側にも開けており、その両側にも石垣が残っている。
東面の石垣
副郭
基本的に単郭の城郭であるが、東側虎口の前方(東)も曲輪のようで、狭いながらも削平地になっている。
この写真は、東側虎口上から撮ったもの。
主郭と主郭中央に立つ石碑
主郭内は低い土塁で囲まれた浅いすり鉢状になっており、「後藤但馬守城址」の石碑が立っている。