本丸跡
石田三成の居城
所在地
滋賀県彦根市佐和山町・鳥居本町
形状
山城
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、石垣、井戸、堀切、竪堀、碑、説明板
満足度
★★★☆☆
歴史等
建久年間(1190~99)豪族・佐保時綱が築城した。室町時代は小川氏、磯野氏の居城となり、戦国時代には浅井氏が領有し、
磯野氏が城代となる。元亀元年(1570)から天正10年(1582)にかけて織田信長と戦い、ついに開城した。
天正10年(1582)本能寺の変後、堀秀政が入城。次いで、天正13年(1585)堀尾吉晴が入り、近世城郭へと改修した。
次に、天正18年頃石田三成が入城し、改めて城と城下町の整備を行ったが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に敗れ、
佐和山城も東軍に攻められ落城した。
その後、関ヶ原の戦功により、上野高崎より井伊直政が18万石を領して入城した。
直政は新たに彦根城築城を計画したが、
着手できないまま慶長7年(1602)に死去したため、嫡子・直継が佐和山城等の築材を利用し彦根城を築城し移り、
佐和山城は破却され廃城となった。
『日本城郭大事典(新人物往来社刊)参照』
訪城日
2006/11/24
現況・登城記・感想等
司馬遼太郎の「関ヶ原」を読んで以来、石田三成が決して嫌いではない私としては、是非登城してみたい城のひとつであった。
佐和山城は、「治部少に過ぎたものが二つある。嶋左近に佐和山の城」と言われた城であるだけに、実に規模の大きい山城である。残念ながら、
彦根城築城の時に用材を徹底的に運ばれ、破却もされたのであろうか、わずかに本丸の石垣の一部(巨岩が2個重なっているだけ)
と千貫井戸に気が付くくらいで、残る遺構は少ないようだ。また、その後は全く手付かず状態であったのだろうか、
本丸がやや整備されているくらいで全山鬱蒼とした森の中といった感じである。
本丸へは龍潭寺(遠州井伊谷の龍譚寺の分寺)と清涼寺(伝嶋左近屋敷跡)から登城道があるが、大手からの道は全く未整備のようである。
ただ、本丸の紅葉の美しさと本丸からの眺望は最高である。(2006/11/24登城して)
ギャラリー
龍譚寺手前の駐車場から見た佐和山城
勿論、
後ろの山だけが佐和山城ではなく本丸のある山である。
石田三成の像(龍潭寺にて)
登城道
鬱蒼とした森の中を登城。
登城道は非常に細く、急峻な崖に沿って歩く所が結構多くある。
本丸跡
本丸跡の紅葉は本当にきれいだった。
本丸からの眺望
本当に素晴らしい眺望であった。左写真の中央の丸い山は伊吹山、
右写真には琵琶湖と米原の町並みが。往時は360度の景色が見えたことであろう。
本丸の石垣の一部(破却洩れの石垣か?)
千貫井戸
石田時代、城中の飲料水として用いられていた有名な井戸で、
銭千貫目にも替えがたい貴重な井戸というので、かく命名された。