紀伊 和歌山城(和歌山市)

復元天守

御三家紀伊徳川家の本城、日本三大平山城の一つ

別名

虎伏城、竹垣城

所在地

和歌山県和歌山市1番丁

形状

平山城(標高:48.9m)

現状・遺構等

遺構等:復元天守、櫓、門(現存岡口門・追廻門、復元大手門)、曲輪、石垣、水堀、石碑、説明板ほか

満足度

★★★★☆

訪城日

1997/03/20
2004/11/28
2006/01/14

歴史等

天正13年(1585)、豊臣秀長は兄・秀吉の命をうけて和歌山城の築城にとりかかった。しかし秀長は完成を見ずに大和郡山に移った。
翌天正14年(1586)に、秀長の家臣・桑山重晴が城代として3万石を領し入城した。 桑山氏は14年間の在城期間に本丸部分を中心に築城を進めた。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで軍功のあった浅野幸長が37万6千石を領して城主となり、桑山氏は大和布施に移封された。 浅野氏は19年間の在城中に、二の丸部分を整備させたり、一橋門を大手にするなど、その後の基礎となる築城工事を次々と行った。 2代長晟は安芸広島に移るまでの間に、 土塁を石垣に変えている。
元和5年(1619)、浅野氏は安芸広島へ移封され、 徳川家康の第10子・頼宣が55万5千石を領して入城した。以後、和歌山城は御三家紀伊徳川家の居城となり、 幕府の西国支配の拠点という役割を担うことになり、紀伊徳川家は明治まで14代続く。
江戸初期の天守は、弘化3年(1846)の落雷により焼失し、4年後の嘉永3年(1850)に再建された。その後、昭和20年(1945) に戦火を蒙り再び焼失した。現在の天守は、昭和33年(1958)に鉄筋コンクリート造で復元されたものである。
『和歌山城パンフレット参照』

【日本三大平山城】
姫路城伊予松山城とこの和歌山城をいう

現況・登城記・感想等

この城の見所は、やはり復元された美しい天守閣と櫓、そして岡口門から入ると正面に見える高石垣であろう。
天守閣と櫓は、復元とはいえ形もよく、調和もとれていて、登城の度に見とれてしまう。また、岡口門から見る高石垣も素晴らしい。
動物園の所からの高石垣の姿も素晴らしいのだが、前を遮る鳥の籠やネットに興ざめしてしまうのが残念だ。また、 本丸御殿のあった小山が水道局の給水場になって入れないのも残念である。
この城で珍しいと思ったのが、城の周りに多く使われている石や敷石の色である。なかなか綺麗で、 現代の庭に好んで使われそうな緑色の石である。和歌山北部の地殻を構成している緑泥片岩、通称青石らしい。そういえば、雑賀崎あたりの岩が、 この色をしていた。
(1997/03/20、2004/11/28訪城後)

今回は、長崎時代の仲間との訪城である。天候が悪かったのが残念であったが、和歌山城の天守閣、櫓、高石垣は何度見てもいいものだ。
(2006/01/14訪城後)

ギャラリー

和歌山城内図(パンフより)

大手門と一ノ橋
当初は一之橋御門とよばれていたが、寛政8年(1796)に大手御門と改称された。明治42年(1909) に自然倒壊し撤去されたが、昭和58年(1983)、一の橋と共に再建工事が施工され、高麗門形式に復元された。
 

一中門跡
大手門を入り50mほど進むと。一中門跡へ出る。この枡形の切込みハギの石垣がかっこいい。

二の丸跡
紀州藩政庁のあったところで、面積約21,200㎡あり本殿及び諸局諸司を置いていた。この一部は南面して、 東に唐門、西に長屋門、切手門があって紅葉渓に通じていた。四周の櫓は、南に太鼓櫓、北に物見櫓、 西に駿河櫓があったが明治廃藩と共に次第に崩壊した。ただ本殿の一部は明治18年(1885) 大阪城内に移建され紀州御殿と称し長らく往時をしのばせていたが、昭和21年(1946)失火のため惜しくもその姿を消した。なお、 現在の庭園は昭和56年(1981)庭園文化研究所 森蘊 氏が平安時代の「作庭記」及び「鳥獣戯画」の事実を参考にして、 この庭園の石組をデザインしたもので、昭和の鳥獣戯画的構図による庭園石組である。(説明板より)

伏虎像
江戸時代、和歌山城は、別名「虎伏山竹垣城」と呼ばれている。これは、和歌山城の建つ山が、 海上から見ると猛虎が伏している姿に似ているからである。現在では、「虎伏城」、「伏虎城」などとも呼ばれている。この像は、 和歌山城の別名にちなんで昭和34年に建てられ、二代目にあたる。初代は郷土出身の女流作家有吉佐和子著『紀ノ川』にも登場するが、 銅像であったため、戦時下の昭和17年(1942)に供出されている。(説明板より)

登城道
正面に見える本丸御殿跡の高石垣と両側の見事な石垣、まさに登城道の風格が。

表坂登り口の石垣

本丸御殿跡
この地の上段を本丸御殿跡という。本丸御殿は天守閣付随建物として元和年間に創建されたもので、中央に 「七福の庭」を配していた。当御殿には文久3年(1863)3月10日から翌年10月26日まで14代藩主徳川茂承公夫人が住まわれ、 「宮様御殿」とも称された。ここに正室が住まわれたのは実に始祖徳川頼宣公以来のことであった。 廃藩後この御殿の一部が移築された市内小倉光恩寺の庫裡は現在唯一の建造物である。本丸御殿跡には大正12年(1923) 上水道貯水池が設置され現在に至っている。(説明板より)

本丸一之門跡から天守を
和歌山城天守閣は、大天守、小天守、乾櫓、二の門櫓、楠門を多聞によって連結させた連立式天守閣である。 各層の屋根には唐破風、千鳥破風を交互に配し、上層階には物見のための高欄をめぐらし、大天守の隅には石落としを設けるなど、 江戸初期頃の様式を残している。とくに、和歌山城天守閣の特徴は、菱形の敷地に左右され、乾櫓(北西)と大天守(南東)が張り出し、 城下の北東と南西からの姿に雄大さを増すように工夫されている。現在の天守閣は、昭和20年7月に戦災で焼失した天守閣(国宝)を、 昭和33年10月に鉄筋コンクリート造で復元したものである。再建年月日 昭和33年10月1日、天守台面積 2,640㎡、 大天守閣高 23.42m(海抜72.32m) ~説明板より~

敷石
和歌山北部の地殻を構成している緑泥片岩、通称青石

二の門(楠門)と二の門櫓
天守閣二の門にあたり、総楠木造りであったため楠門と称されている。弘化3年(1846) 雷火焼失に伴い嘉永3年(1850)再建され国宝建造物として指定を受けていたが昭和20年(1945)戦火のため、またもその姿を消した。 再建年月日 昭和33年10月1日、構造型式 楼門造り本瓦葺(太柱および門板は楠を使用)、建面積 延102.4㎡(説明板より)

大天守と小天守
楠門を入ると大天守の陰に小天守が。小天守の唐破風が重厚感がある。

乾櫓
こちらは千鳥破風だけのすっきりとした感じでスマートだ。

天守閣から、左に二の門櫓、右に乾櫓

岡口門
岡口門は、和歌山城南東の虎口にあたり慶長5年(1600)浅野幸長公入国後、 大手門として創建されたものであるが、元和5年(1619)徳川頼宣公入国と共に大手門を「一の橋口」に改められたため同7年、 搦手門として改修され現在に至っている。楼門は切妻造りで、昔は向かって右に御蔵、左に二重櫓があった。 また北に接する土塀も当時のもので特に狭間は一枚石のくり抜きになっている珍しいものである。(説明板より)

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