岩盤を削った荒々しい岩肌の堀切
三石城の西の固めとして築かれた浦上氏の城
所在地
岡山県備前市東片上
【アクセス】
JR赤穂線「備前方上駅」から南へ約600~700m。「備前方上駅」前の道路を隔ててすぐ前(南)の「キムラヤパン」の東側の道を南進し約600mの所(野球グラウンドの前)に説明板が設置され、駐車スペースがある。
登城口(駐車場)から主郭まで35分弱。
形状
山城(標高209m、比高200m)
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、石垣、堀切、竪堀、井戸、城址標柱、説明板、遺構案内板、道標
満足度
★★★☆☆
訪城日
2011/09/23
歴史等
富田松山城(とだまつやまじょう)の経緯や築城期は不明であるが、応仁2年(1468)に備前国守護代になり三石城を居城としていた浦上則宗の時に、三石城の西の固めとして交通の要所を押さえるために城砦を築いたものと思われる。
そして、文明年間(1469~1487)には三石城の出城として存在し、代々浦上氏一族或いは有力家臣が城主を勤めていたものと思われる。
その後、播磨国西部から備前国東部を領有して戦国大名となった村宗(則宗の孫)が享禄4年(1531)に死ぬと、3人の子は不和になり、当主の政宗が播磨室津城に、次男宗景が天神山城(三石城も持ち城とした)に、三男国秀が富田松山城に分立して居城を構えた。兄の宗景に従い富田松山城に移り住んだ国秀は、この城を本格的城郭に改築して居城にしたと考えられる。
弟の離反を怒った政宗は、翌5年(1532)に宗景討伐の軍を起こし、まず三石城を攻略し、ついで富田松山城を攻撃して国秀を降伏させた。ついで富田松山城を本陣にして宗景を攻めたが、決着がつかず、双方が自然と手を引いて終戦となった。政宗は富田松山城と三石城に城番を置いて室津城へ帰陣した。
ほどなく政宗の勢力が衰えて、宗景の備前国の支配権が確立すると、富田松山城は再び宗景直轄の出城になり、国秀が城主となってこの一帯の執政を行った。
国秀のあとの城主は不明であるが、永禄12年(1569)には浦上景行であった。
その後、浦上宗景の家臣であったが、次第に勢力を持ち戦国大名化した宇喜多直家が、天正5年(1577)に天神山城を攻め、宗景を遁走させると、景行の守る富田松山城も攻め落とし廃城にした。
『日本城郭大系13より』
現況・感想等
富田松山城(とだまつやまじょう)は、比高200mの富田松山山頂に築かれた輪郭式山城で、上部建築物を除く当時の遺構がほぼ完存している。
縄張は、本丸を山頂に構え、西側の山腹に二の丸を設け、その下に本丸と二の丸を半周するように、大手曲輪や大手腰曲輪などの腰曲輪や帯曲輪が幾段も設けられている。そして、更にその下には城山を半周するように犬走りを施している。
本丸周囲には土塁が完存し、大手曲輪虎口には石垣が僅かに残っている。
本丸の東側尾根続き側には一段下がって三の丸と、更にその下に出曲輪を設け、その東側には尾根を断ち切る堀切がある。この堀切は規模こそ大きくはないが、岩盤を削ったあとが荒々しく迫力がある。
また、堀切の東尾根続き約200mの別峰山頂部には東出丸を置いている。この東出丸からは360度のパノラマが楽しめる。中でも、瀬戸内海方面の眺望は素晴らしい。
この城は、登城道がよく整備されている上、眺望も良く、ハイキングを楽しむのにも絶好の城跡だ。
(2011/09/23登城して)
ギャラリー
富田松山城主郭部縄張図(登城口の説明板より)
【登城記】
登城口の説明板前から富田松山を望む
説明板脇に駐車し、いざ登城! 右奥に見える電柱脇が登城口になる。
登城口
登城道分岐点
登城口から入り歩き始めると、すぐに墓地が見え、その手前が直進と右折の登山道分岐点となる。いずれも、富田松山城址へと続く道だが、右折する道は急坂のようだったので直進することにした。所用時間はどちらも同じくらいのようだった。
登城道
山の中に入ると、すぐ林の中に小鹿を発見した。残念ながら写真を撮る前に逃げて行ってしまった。この山は、水が豊富なのか、或いは2日前の台風15号によるものか水が流れる沢登りのような登城である。沢のような道が終わると一人通るのがやっとの細い道を上って行く。
尾根道からの眺望
登城口から歩くこと、20分ほどで尾根へ出る。そして、次第に周りの景色が拡がってくる。眼下に広がる瀬戸内海(片上湾)の眺望が素晴らしい。
雨乞い跡地
そして、さらに尾根道を歩くこと5分ほどで「雨乞い跡地」というちょっとした頂部へ出る。説明板によると「東片上村の発祥地の竜主に向かって千把焚で祈願した」とあったが・・・?
東出丸と主郭
雨乞い跡地からは、進行方向(西)に東出丸(手前の山)と主郭部(写真奥の山)が見える。
分岐点
雨乞い跡地から3分ほどで、分岐点に着く。登城し始めてすぐの分岐点で右折する登城道とここで交わるのだ。いずれの道を歩いて来ても、ここまで30分弱のようだ。
東出丸
分岐点からは坂道を登るとすぐに「東出丸」へ出る。登城口から登ること、30分弱である。東出丸は、20m×10mほどの角丸長方形の曲輪だ。
東出丸周囲の土塁?
東出丸周囲には「土塁跡」という案内板があった。往時は土塁で囲まれていたのだろうが、灌木が植えられているだけで、私には土塁の痕跡も分からなかったが・・・?
東出丸からの眺望(瀬戸内海方面)
東出丸からの眺望はまさに絶景で、ここまで登ってきた疲れが吹っ飛ぶようだ(*^_^*)
東出丸からの眺望(主郭部方面)
東出丸から主郭部区域までは約200mほどで、登城道までよく見える。
堀切
東出丸から尾根道を3分ほど歩くと右手に堀切(TOP写真)が現れる。堀底を進んで行くと、この堀切が規模は大きくはないものの、岩盤を削ったもので、荒々しくて迫力があるのに感激!
本丸跡の入口裏門への道
堀切のところから西へと、「搦手筋」と書かれた案内板のある道を進むと右上へ曲がると「本丸跡の入口裏門」となる。直進すると大手曲輪へ出るようだ。
本丸へ
本丸への階段を登り裏門?から本丸へ入る。本丸はかなり広く、長径約60m、短径約40mほどのいびつな卵形えおしており、周囲を土塁が取り囲んでいる。土塁は完存しており、高さ約1m、上部幅約2mほどである。
本丸に立つ立札と石碑
本丸の中央には、富田松山城の築城と落城の年代と城主が書かれた立札があり、その後ろには石碑が立っているが、石碑は相当古いもののようで、刻まれている字が全く読めない。
三の丸
一旦、本丸の東側一段下にある三の丸へ降りて行った。この写真は、三の丸から本丸(写真正面奥の土塁上)方面を撮ったものである。三の丸は幅約25m、奥行約15mほどの方形で、本丸より3mほど低くなっている。本丸の土塁下にトイレが設置されていたが、もう少し場所を考えて欲しいものだ。おまけに、かなり古くて汚いのが・・・(/。ヽ)。
三の丸東側下の出曲輪
三の丸の東側下には出曲輪が設けられており、この曲輪も外側を土塁が取り囲んでいる。
本丸虎口
本丸周囲の土塁は、二の丸側に虎口を構えている。この辺りには石が多く転がっていたが、往時は石塁になっていたのだろうか?
本丸土塁上から二の丸を
二の丸は、本丸の西側下(床面対比で比高約1m)にあり、幅約35m、奥行約12mで、この城の曲輪としては大型の曲輪である。写真奥に見える折れのある本丸土塁がかっこいいね(*^_^*)。
二の丸から本丸虎口を
本丸と二の丸は床面対比では1mほどしかないが、二の丸からこうして見上げるとなかなかのものだ。
二の丸下の腰曲輪
二の丸の下には2段の腰曲輪が設けられている。この腰曲輪は、本丸への道筋を固めたものだが、兎に角、この城は規模は大きくないものの、やたらと多くの腰曲輪や帯曲輪が設けられているのが特徴だ。
大手曲輪
大手曲輪の虎口には僅かながら石垣が残っている。ただ、この曲輪、仮称大手曲輪とのことだが、私には帯曲輪としか思えないような・・・?
大手腰曲輪
この曲輪は、長さ約80mもある細長い曲輪だ。
大手腰曲輪に残る井戸
この井戸は、ほとんど埋まっており、案内板がなければ気が付かないと思う。
犬走り
城山の西側から北側にかけてほぼ半周するように犬走りが設けられ、特に西側は帯曲輪のような広さがあるが、切岸?の勾配もかなりのものなので止むを得なかったのかも?
下山
下山時は、分岐点からもう一つの道を降りて行った。すると、傾斜30度近くありそうな階段を降りていくはめになり、膝がガクガク(;´▽`A``。 登りをこの道にしなくて良かった(*^_^*)。 写真ではそれほどには見えないが、車を置いてきた場所の前にあったグラウンドが真下に見えるような感じだw(*゚o゚*)w。