備中 庭瀬城(岡山市)

庭瀬城水堀と中之島

関ヶ原合戦後に撫川城域東部に築かれた御陣屋

別名

御陣屋

所在地

岡山市北区庭瀬
大乗院の南西に水堀があり、この辺りが庭瀬城跡である。
大乗院:北区庭瀬866-4、電話086-293-2549

形状

平城(陣屋)

現状・遺構等

【現状】 宅地、清山神社ほか
【遺構等】 曲輪、石垣、水堀、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2012/01/08

歴史等

戸川達安は、元々、宇喜多氏の麾下に属していたが、慶長4年(1599)の家中騒動を機に主家から離れ、翌5年の関ヶ原合戦では徳川方に属して戦功を立て、都宇・賀陽両郡のうち2万9千余石を与えられて入部し、撫川城域東部に新しく陣屋(庭瀬城)を構えた。
戸川氏は、4代安風が嗣子なく、改易となり、一時天領となった。
天和3年(1683)に下総関宿から久世重之が5万石で入封したが、貞享3年(1686)丹波亀山へ移封された。
元禄6年(1639)、松平信通が大和興留から2万石で入封したが、元禄10年(1697)には出羽上山へと転封となった。
最後に、元禄12年(1699)上総高滝より板倉重高が2万石で入封し、以後、明治まで10代が庭瀬に居城した。
『日本城郭大系他より』

現況・登城記・感想等

庭瀬城は、足守川左岸の水郷を思わせる地に築かれた城である。
庭瀬城の特徴は、何と言っても、水を満々とたたえた堀だろう。現在、周囲は宅地化で開発が進み、城郭のほとんどは消失してしまい、その規模などは分からないが、縦横にめぐる水路(堀も含めて)や石垣を眺めながら散策すると、湿地帯を自然の要害として取り込んだ往時の城(陣屋)や城下町(陣屋町)の情景が目に浮かぶようだ。
最近では、地元でも観光開発に取り組んでいるようで、西方僅か150mほどにある撫川城址をも含めた「吉備・陵南歴史と文化の散歩道」といったパンフレットや案内板があり、それにそって散策するのも楽しいだろう。
(2012/01/08訪れて)

ギャラリー

吉備・陵南歴史と文化の散歩道(現地案内板より)
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水堀
庭瀬城の特徴は、何と言っても、満々と水を湛えた濠だろう。大乗院の駐車場のすぐそばに広~い水堀が・・・。西の方を見ると奥の方に中之島が見える。その辺りが、僅かに残る庭瀬城の一部らしい。
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水堀に浮かぶ中之島(弁天社)
満々と水を湛えた濠の中に浮かぶ中之島の光景はなかなかのものだ。堀には大賀一郎博士が発見した2000年ハスとも言われている大賀ハスが栽培され毎年見事な花を咲かせるそうだ。
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弁天社と城址碑
庭瀬城中之島清山神社

清山神社と城址碑
城址碑は、中之島と清山神社の両方にあるが、どちらもなかなかユニークなものだ。
庭瀬城清山神社2

大手門跡
庭瀬城は、北面した構えで、大手門は北の方にある。これは、主要物資の流通路であった山陽道を念頭に入れてのことと思われる。
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法万寺川
法万寺川は、高梁川合同堰から取水された農業用水が足守川経由で流れてきている。江戸時代は、撫川城や庭瀬城の外濠の役割もしていた。また、水路を水運として利用し、備中南部の舟物資集散地の要所として栄えていた。
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雁木と天秤石
雁木は、江戸時代から昭和初期にかけて船への乗り降りや荷役のために使用されていた階段状の船着場。手前の天秤石は、平成19年旧庭瀬港跡の工事のため、旧庭瀬港の外堀を浚渫した時に東約100mほどにある常夜灯近くの堀底から出てきたもの。
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旧庭瀬港と常夜灯
庭瀬は、足守川とその支流を利用した船運が盛んで、地区内に張り巡らされた堀・水路を水運に活用し、水郷の町として発展してきた。常夜灯は昭和29年の暴風で被害を被り取り壊されたが、平成19年に復元された。また、同時に、埋め立てられていた旧庭瀬港も部分的に再現された。
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