周南市文化会館前の小庭園前に立つ徳山陣屋説明板
萩藩初代藩主毛利輝元の次男就隆が分知されて立藩し築かれた陣屋
別名
徳山城、御城、御殿
所在地
山口県周南市徳山5854−41、周南市文化会館
周南市文化会館:周南市徳山5854−41、0834-22-8787
形状
陣屋
現状・遺構等
【現状】 周南市文化会館
【遺構等】 大坂城築城残石(毛利家刻印あり)、説明板
満足度
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訪城日
2012/11/08
歴史等
徳山藩は、元和3年(1617)に毛利輝元の次男就隆(なりたか)が、兄秀就から都濃郡の3万石余りを分知されたことに始まる。
就隆は、初め館邸を下松に設けたが、ここは山陽道から隔たり、かつ領内諸村との連絡にも不便であったため、慶安元年(1648)に海陸交通の要所である野上村に館を移し、同3年、野上を改めて徳山と称した。
正徳5年(1715)3代元次の時、宗家萩藩との境界争いが起こり、翌享保元年(1716)、「本家への非礼」を理由に、幕府により改易された。
その後、藩士や農民による藩再興運動などが起り、享保4年(1719)に元次が隠居し、次男・元堯に家督を譲り再興が許された。
そして、その後は、明治4年(1871)に山口藩に合併するまで、9代およそ220年にわたり城下町として繁栄を続けた。
天保7年(1836)に幕府から念願の「城主格」を許されると、従来の「御館」と呼ばれていた藩主の居館は、以後、「御城」「御殿」と呼ばれるようになった。
尚、徳山の館邸は城の構えではない。従って堀はめぐらしていなかった。
『「現地説明板」、「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「日本城郭大系14」より』
現況・登城記・感想等
徳山陣屋のあった場所には周南市文化会館が建てられ、遺構は全く残っておらず、往時を偲ぶ縁さえない。
文化会館正面玄関前の築庭の一角に陣屋の説明板が立ち、その近くに、毛利家の家紋を省略した「一〇」の刻印が見られる大阪城築城残石がが置かれている。
尚、徳山陣屋は、上総飯野陣屋、越前敦賀陣屋と並び、三大陣屋といわれているが、その片鱗はまったくないですね(苦笑)。
(2012/11/08訪れて)
ギャラリー
大坂城築城残石