陣屋跡南東隅の水堀
日本三大陣屋の一つ
所在地
千葉県富津市下飯野、飯野神社
県道157号を南へ進み、JR内房線を越え、700m程行った信号を左折して500m程行くと、
左手に陣屋跡の水堀が見えてくる。
形状
陣屋
現状・遺構等
現状:飯野神社、宅地
遺構等:水堀、土塁、曲輪、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2007/03/18
歴史等
飯野陣屋は、飯野藩初代藩主保科弾正忠正貞が、慶安元年(1648)に築造しやもので、明治維新に至るまで10代220年余りの間、
藩主の居所であった。
正貞は、信州高遠の城主保科正直の三男で、
母親は徳川家康の異父同母妹であり、早くから家康に仕え、大阪夏の陣で活躍し、慶安元年(1648)6月大阪城番となり、
前封と合わせ1万7千石を領し、飯野を居所とした。
会津藩は本家にあたる。会津藩が相模と房総沿岸の警備を命ぜられた時、
飯野藩が名代となり、弘化4年(1847)より嘉永6年(1853)迄、房総沿岸警備を命ぜられた。
飯野藩歴代の藩主は、大阪定番、加番や江戸城門番を勤めることが多く、陣屋には代官がいた。禄高のうち、飯野周辺は3千石で、
大部分は関西地方にあった。
陣屋の面積は13万㎡余(約4万坪)で、本丸、二の丸、三の丸を備え、その堂々たる偉容は、日本三大陣屋の一と称せられた。
周濠は幅5m、底部がV字形の薬研堀で、面積は6,620㎡(約2千坪)である。堀に沿って高さ2mの土塁が、ほぼその形を止めている。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
飯野陣屋は、周防徳山陣屋・越前敦賀陣屋と共に、日本三大陣屋の一つである。陣屋といえども、その面積は広大で、
周りを水堀と土塁が囲んでいる。堀の幅は、僅か5m程と狭く、また土塁も2m程で高くはないものの、陣屋の外郭を周るそれらの遺構は、
ほぼ完存している。戦国期も終え、徳川幕府が安定してからの陣屋で、せいぜい一揆に備えて程度のものであろうし、
この規模で充分であったのであろう。
陣屋内二の丸跡には、飯野神社があり、その背後には三条塚という前方後円墳がある。
全体的に遺構はよく残っているが、もう少し整備すれば、いい歴史公園になるのでは・・・。(尤も、あまりに綺麗に整備をされ、
改変でもされてしまったら嫌だが)
(2007/03/18登城して)
ギャラリー
飯野陣屋概念図(現地説明板より) ~クリックにて拡大画面に~
大手口に立つ「飯野陣屋濠跡」
の石碑と説明板
㊧二の丸跡に建つ飯野神社、㊨神社裏(三の丸)
の三条塚古墳
㊨神社裏(三の丸)には、580~610年頃の築造と思われる、長さ121mの前方後円墳があり、
古墳の外側周濠が陣屋の外堀に再利用されている。陣屋内の古墳であった為か、平成元年(1989)まで未発掘であった。発掘調査により、
二重周濠の全体像が明らかになった。
搦手口?(神社裏)の土塁
当時、
この搦手口?があったかどうかは分からないが、土塁は当時のものであろう。
飯野陣屋を囲む水堀
陣屋の周囲を囲む水堀は、今もほぼ完存しており、堀幅5m、底部がV字形の薬研堀で、
面積は6,620㎡(約2千坪)である。堀に沿って高さ2mの土塁が、ほぼその形を止めている。