僅かに残る築山館の周囲をめぐっていた土塁の一部
隆盛を迎えて大内氏館が手狭になり、28代教弘が築いた別館
読み方
つきやまやかた
所在地
山口県山口市上堅小路100(八坂神社)
八坂神社と築山神社の周辺一帯が館跡で、大内氏館跡(龍福寺)のすぐ北側に位置する。ナビで八坂神社を指定しても出て来ると思うが、龍福寺の駐車場に車を停めて、大内氏館跡とセットで廻るのをお薦めします。
龍福寺:山口市大殿大路119、083-922-1009
形状
館
現状・遺構等
【現状】 八坂神社、築山神社、野田学園、宅地ほか
【遺構等】 土塁、石柱、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2012/11/18
歴史等
築山館は、15世紀中頃に、大内氏28代教弘によって大殿大路の大内氏館の別館として築かれた。
24代弘世が初めて大殿大路に館(大内氏館)を営んだ正平15年(1360)頃は、周防一国の守護であったが、その後、大内氏は周防・長門・豊前・筑前の4ヶ国を領し、下僚の増員も免れぬところとなり、館(大内氏館)が手狭になったため、これに対応するために築山館を築いたものと思われる。
当時の築地の外面は大石を積み上げた豪壮な石垣造りであったという。
また、庭園は、大内氏29代当主政弘に招かれ、文明12年(1480)から1年間ほど山口に滞留した連歌師・宗祇が「池はうみ こずゑは夏の 深山かな」と詠んでおり、豪華であった庭の様子が偲ばれる。
しかし、天文20年(1551)、大内氏31代義隆は、重臣陶晴賢の謀叛により、長門に逃れ、大寧寺にて自刃した。
弘治3年(1557)、陶晴賢によって擁立された大内義長(大友義鎮の弟)は、毛利元就によって攻められ、長府の長福寺(現、功山寺)にて自刃し、ここに大内氏は完全に滅亡し、防長両国は毛利氏の所領となった。
そして、慶長10年(1605)、毛利輝元は、館跡に大内義隆の霊を祀る神社を創建した。
幕末の文久3年(1863)、毛利氏が萩城から山口に移った際、築山館跡の築地の大石を運び、山口城の石垣とし、後は土を掻き上げて今の姿となったという。
『「日本城郭大系14」、「現地説明板」ほか参照』
現況・登城記・感想等
築山館は、大内氏が隆盛を誇るに伴い、下僚が増え、大内氏館が手狭になったため築かれた別館である。従って、大内氏館跡(龍福寺)のすぐ隣(北側)に位置する。
館跡は、八坂神社、築山神社、野田学園などの敷地になっており、遺構といえば、築山神社の北西部に鍵型の大規模な土塁が残っているだけである。
(2012/11/18訪れて)
ギャラリー
八坂神社の鳥居と築山館跡の石碑
築山館跡の入口は、南西にあり、鳥居の手前に「築山館址」と刻まれた石碑が建てられている。
土塁
往時は、築山館の周囲をめぐっていたという土塁であるが、今は、築山神社の北西部に鍵型の土塁が一部残っているだけである。また、往時は、外面を大石を積み上げた豪壮な石垣造りであったというが、毛利氏が萩城から山口に移った際、築山館跡の築地の大石を運び、山口城の石垣とし、後は土を掻き上げて今の姿となったという。
説明板と石碑
土塁の南側に、説明板と「大内氏遺跡」と刻まれた小さな石碑が立っている。