肥前 獅子ケ城(唐津市)

本丸南面の石垣

松浦党波多氏の天険の山城、後に寺沢氏により石垣造りの大城郭に

別名

獅子城、猪ヶ城、鹿家城

所在地

佐賀県唐津市厳木町浪瀬
国道203号「箞木(ウツボキ)」信号を南へと県道32号に入り南進(途中から西進になる)する、そこから2.5kmほど進むと道路右手に「獅子城跡入口」の石碑があるので、ここを右折する。そこから道なりに山を登っていくと行き止まりに駐車場へ出る。ここは、三の丸のすぐ下になる。

形状

山城

現状・遺構等

【現状】 山林(市指定史跡)
【遺構等】 曲輪、石垣、堀切、竪堀、井戸、石碑、説明板、遺構説明板等

満足度

★★★★★

訪城日

2012/11/09

歴史等

獅子ケ城は、治承から文治年間(1177~90)頃、松浦党の祖・源久(みなもとのひさし)の孫にあたる源披(ひらく)が築城したが、披の子・源持(たもつ)の代になって平戸へ移り住んだため廃城になったと伝えられる。
持が去ってから、上松浦地方は波多氏の支配下となった。その後、佐賀地方に勢力を持つ竜造寺氏の脅威が増し、室町時代後期になると、波多氏を頭とする松浦党の勢力と、対する竜造寺氏の勢力が競合する地域となった。そのため、獅子ケ城は上松浦地方の防備の最前線として重要性が再認識され出した。
そこで、波多氏をはじめとする松浦党の一統は協議し、武勇の誉れ高い鶴田兵庫介(後に越前守)前(すすむ)を獅子ケ城に任じ、天文14年(1545)に旧城を改築して、守りに就かせた。
越前守前は、竜造寺隆信と再三にわたる戦の後、天正年間(1573~92)初め頃に和を結んだ。そして、長子鶴田上総介清賢の時、文禄の役(1592~)で波多氏が改易となる前後に、竜造寺氏の出である多久安順に仕えて別府(現多久市東多久町別府)に移ったので、以後、獅子ケ城は再び廃城になった。
波多氏改易後、上松浦一円を所領した唐津藩初代の寺沢氏は家臣を獅子ケ城に置いた。そして、その際に、獅子ケ城を現在見られるような石垣造りの城に改造し、瓦葺きの建物、櫓、門などを建てた。
元和元年(1615)の一国一城令で全国の城郭が破却され出す頃、寺沢氏も獅子ケ城を破却し古城番として監視の武士を村に常駐させた。後に、唐津藩代々の藩主も古城番を置いたが、文化14年(1817)に幕府領となった際に古城番は廃止された。
『現地説明板2基より抜粋』

現況・登城記・感想等

獅子ケ城は、本丸をはじめ、井戸曲輪、三の丸、一の曲輪、二の曲輪の大掛かりな石垣、二の丸と井戸曲輪間の岩盤を掘削した堀切、二の丸周囲の巨大な岩の壁等々、どれをとっても見事という他ない!大感激です!!
しかも、それらが、鬱蒼とした森の中に忽然と現れたのです。まさに、「鬱蒼とした山の中に眠る総石垣造りの中近世の大城郭」です。
獅子ケ城へは、それなりに期待しての登城であったが、まさか、これほどまでに素晴らしい城址とは想像だにしていなかったw(*゚o゚*)w。 本当に嬉しい誤算でした(*^_^*)。
ついでに、イノシシを見掛けたのも誤算?でした(笑)。尤も、その名の通り「猪ケ城」とも書くそうだけでもね(苦笑)。
(2012/11/09登城して)

ギャラリー

鳥瞰図(現地案内板より)
00獅子ケ城鳥瞰図IMG_4783

縄張り略図(現地説明板より)
1獅子ケ城縄張図

【駐車場にて】
獅子ケ城へは、車でかなり登って来れる。終点が駐車場になっており、そこは既に三の丸のすぐ下です。つまり写真の崖の上が獅子ケ城なのですが、それにしてもスゴイ巨岩の急崖です。これぞ断崖絶壁というのでしょうね。垂直どころか、こちらへのしかかってくるような迫力があります。そうです、獅子ケ城は、周囲を断崖絶壁に囲まれた天然の要害の地に築かれた城なのです。この光景を見たとたんに、期待でワクワクです。
1駐車場

登城
巨岩の脇に登城道があります。道は土橋のようになっています。道の両側は空堀でしょうか。
21

【二の丸&三の丸】
二の丸はほぼ垂直に切り出された岩盤の上にあり、この崖の下には二の丸を囲むように三の丸が広がっている。
二の丸は、元々、井戸曲輪と繋がっていたのを、二の丸東側の岩盤を掘削して堀切を設けている。
三の丸は、城内で最も広い曲輪で、周囲のほとんどを石垣を用いて築きより堅固にしている。東端には城の出入口となる虎口があり、南端には見張りのための櫓跡が残っている。また、発掘調査により礎石建物跡や新たな虎口等が確認された。
二の丸と三の丸の縄張図(現地説明板より)
20二の丸と三の丸縄張図

三の丸へ
駐車場から登り始めて1~2分で、早速、右前方に石垣が見えてくる。三の丸周囲を囲む石垣である。左奥上に見える岩の小山は二の丸です。
22三の丸へ

二の丸
三の丸に登ると、まず目に付くのが、この岩山です。本当に存在感があります。この上が二の丸で、その周囲が三の丸です。
23二の丸の岩壁

南三の丸
三の丸を左廻りで廻ることにします。まず、南三の丸です。南三の丸は、かなり広く、周囲を石垣で築いています。この写真は、南三の丸の南部分を撮ったもので、その奥にある櫓跡まで石垣が伸びています。石垣の下は急崖です。
24南三の丸石垣

櫓跡
26南三の丸櫓台跡

櫓先端部の石垣
櫓下の石垣の石は、かなり大きな石が使われています。この下は、急崖です。当時の、人夫さんは大変だったでしょうね。
27南三の丸櫓台角石垣

虎口
三の丸東端の虎口です。虎口も、石垣でがっちり固められています。このあと、北東部の虎口を見落としてしまいました。アチャー(;´▽`A``
30三の丸虎口

北三の丸
北三の丸を南西から撮ったものです。この石垣の下は、とんでもない急崖で、おまけにやたらと深いです。
32北三の丸石垣

横矢
この辺りの石垣も良好に残っています。落ちると危ないです(^_^;。
33北三の丸横矢石垣

井戸曲輪の石垣が
北曲輪を西へ進んでくると、立派な高石垣が見えて来ます。これはもう近世城郭の石垣です。一緒に登城したN澤氏は、早速、石垣の下への犬走りへと下りていきました。勿論、私も後に続きましたが・・・。井戸曲輪については、井戸曲輪編で、また再度・・・。
35井戸曲輪石垣

堀切
二の丸(右)と井戸曲輪(左)との間の堀切です。岩をぶち抜いてあり、迫力満点です。高さも、ゆうに5mはあるでしょう。
36堀切

二の丸下の南西部分の岩
二の丸南西部も急崖の岩です。とても、登ってはいけません。これで、二の丸の周囲を1周しましたが、二の丸上へ簡単に登れそうなところは無かったようですが・・・。
37二の丸岩壁

二の丸上へよじ登る
しばらく、南三の丸の石垣などを眺めていたら、N澤氏がいません。すると、二の丸へよじ登っているN澤氏を見付けましたw(*゚o゚*)w。 二の丸南東部からです。私も、後に続いて登って行きましたが、岩が崩れ落ちそうで、結構危険です。杖を持っていなかったら無理だったでしょう(;´▽`A``。
38二の丸上へ

二の丸上にて
二の丸は不整形ですが、よく削平されています。所々に礎石のような石が確認できました。また、石積みの深い溝(深くて、よく見えませんでした)のようなのがありましたが、雨水を井戸に溜めるための溝のようです。
39二の丸上

二の丸東端部
東端部は、亀の頭のようにな地形になっている。そこに行くには、細くて、少し凹んだところを通ることになる。先端部はやや高くなって、ちょっとした建物が建てられるほどの広さである。ここからは、北方面がよく見え、東側の井戸曲輪との間は堀切になっており、ここに物見台と防御を兼ねた櫓が建っていても不思議ではない。
40二の丸上

井戸曲輪との間の堀切を見下ろす
二の丸の東端部から堀切を見下ろしたが、僅か5mほどの高さとはいえ結構びびります。堀切の向こう側は井戸曲輪です。
41堀切

二の丸から下りる
登ったら、必ず下りなければならない。先程、登ってきたところから下りるのはかなり危険だ。二の丸周囲を廻った時に、「ここなら登れるかも」と見定めていた場所(北西部)があったので、そこから何とか下りることができた(;´▽`A``。
42降りる

【井戸曲輪】
井戸曲輪は、本丸東に位置する平坦地で、北側と東側に石垣を築き、南には本丸に通じる通路が設けられている。江戸時代初期に、曲輪内を整地し、周囲に石垣を巡らせ、石塁を設けて、大手道を整備するなどの大改修が行われたそうだ。井戸曲輪と対峙するように堀切を隔てて東側に二の丸がある。調査により、井戸曲輪と二の丸を結ぶ遺構が確認されたという。
45井戸曲輪縄張図

井戸曲輪北側と東側の石垣
井戸曲輪下北東部下から撮ったものです。かなり大きな石が使われ、角部は不完全ながら算木積みになっており、こうなると、ほとんど近世城郭だ。
46井戸曲輪石垣

三の丸から井戸曲輪へ向かう
二の丸と三の丸を見終わって、井戸曲輪へ向かいます。写真左側の石垣は一の曲輪の石垣です。
46井戸曲輪へ左下は一ノ曲輪石垣

井戸曲輪へ
井戸曲輪は、本丸へ向かう大手道の右手にあります。
47井戸曲輪

石仏
井戸曲輪に入って行く時、左手(井戸曲輪西側)に3体の小さな石仏があったが、そのうちの右端は、明らかにキリシタンの石仏?だった。隠れキリシタンによるものだろうか? 如何にも九州にある城郭だ。
49石仏 50石仏

井戸
井戸曲輪の北東先端部には井戸跡があったので、覗いてみた。よく分からなかったが、水はないようだった。
48井戸

【本丸】
本丸は城主の居所で城の中心となる場所である。建物や虎口などの施設は城の中でも規模が大きく堅固な造りである。
北西端には通路幅が非常に狭い虎口が現存している。また、発掘調査により、2棟の大型の礎石建物跡や破却された虎口、元々造られていた虎口を塞いだ様子等が確認された。また、一部で桃山時代のものと思われる石積みが、現在の石垣の内側から検出されており、江戸時代初期にかけて数度にわたり石垣を用いて城を大改造し、現在の姿になったことが窺える。

55本丸縄張図

本丸大手虎口
本丸大手虎口は、堅固な石段や門があったが、その重要性から廃城時に二度と使えないように徹底的に破壊されたといい、かなり埋まってしまってはいるが、よく見ると浅いながらも枡形が分かる。
56大手虎口

本丸東側に立つ説明板と城址碑
57本丸へ

城址碑と礎石建物跡
本丸の東部には城址碑が立ち、その前には礎石建物跡の石が確認できる。
58礎石と虎口

本丸北東部北面の石垣
本丸北東部下にも石垣が残っているが、虎ロープで進入禁止。尤も、その下は犬走りもない急崖で、虎ロープが張ってなくても下りて行けそうにないが・・・(苦笑)。
59本丸北東部石垣

桃山時代の石積みと虎口
本丸の北西部には、桃山時代の石積みと虎口跡の石が折り重なるように露出している。
説明板によると「桃山時代の石積みは、江戸時代初期に石垣が築かれた時に完全に埋められた。また、虎口は、虎口内で通路が2度折れ曲がる複雑な構造で、江戸時代初期の廃城時に壊された。」となっている。
石積みは兎も角、虎口の形状がどうなっているのか分かりづらいが、こういうのって歴史を感じさせてくれていいですね。

62石積みと虎口

北西端の虎口
この良好に残る虎口は、搦手にあたり、非常に規模が小さいが、石段が敷かれ、門も取り付けられていたようです。
63本丸北西部虎口

本丸北西端南面から本丸中央部南面にかけての石垣
64本丸南西部石垣

本丸中央部南面の石垣
この本丸南面の石垣は、実に良好に残り、写真奥からさらに東の方へと伸びているが、これ以上、石垣の下を歩いて行くのは無理だったので、この写真がが精いっぱいでした(苦笑)。
65本丸南面石垣

【一の曲輪、二の曲輪他】
一の曲輪、調馬場、三の曲輪は、元々、深い谷であったが、高い石垣を三重に築いて守りをより堅固にしている。
一の曲輪は、長さ85mもある石垣でできた地区で、ここは戦いに備えて武士が待機する建物が建っていたと伝えられる。一の曲輪の南下には、軍馬を調練した調馬場があったという。
二の曲輪は、本丸と一の曲輪を囲むように細長く広がり、西端と南端には、それぞれ見張りのための櫓跡がある。
調馬場の南下には三の曲輪と呼ばれる狭い平坦地も見られる。

70一の曲輪と二の曲輪

一の曲輪
一の曲輪は、本丸の南東の急崖の下にあり、85mも続く長い石垣の上にある、細長い曲輪です。
71一ノ曲輪

調馬場
軍馬を調整し、また訓練した場所と伝えられ、近くには厩(馬小屋)が建てられていたという。
71一の曲輪石垣

二の曲輪
本丸と一の曲輪を囲むように細長く広がった曲輪で、西端と南端に見張りのための櫓跡がある。写真右に南端の櫓跡が見える。
72二の曲輪

南端の櫓跡
この櫓台周囲も石垣が築かれている。
73櫓跡

横矢
二の曲輪には、何箇所か横矢が掛かっており、そこも石垣が築かれている。
74横矢

西端の櫓跡
勿論、この櫓台も石垣で固められている。
75櫓跡

三の曲輪
三の曲輪は、かなり谷の下にある平坦地であるが、この曲輪も石垣で固められているようだが、イノシシが走って行くのを見たので下りて行くのは止めた(苦笑)。写真左の石垣は調馬場下の石垣です。
79三の曲輪

【出丸】
獅子ケ城の出丸では石垣が築かれており、発掘調査で江戸時代の礎石建物跡が確認されている。出丸の東西にはほ尾根を断ち切った堀切があり、南北には竪堀も残っている。中世の城の特徴である堀切や竪堀と江戸時代の特徴である石垣や礎石建物が共に見られ、獅子ケ城の変遷が窺える。
90出丸縄張図

堀切
一旦、駐車場に戻り、出丸へと東の方へ向かって行くと、出丸の手前に随分規模の大きな堀切が現れる。深さの割に、ちょっと幅が広すぎるように思うが如何なものでしょうか?
91堀切

出丸
出丸の残る礎石建物跡は、本丸の建物跡とほぼ規模が同じことから、出丸が、単に見張りとしてだけではなく、より重要な役割を担っていたと思われるという。
92出丸

石垣
出丸にも石垣が残っている。しかも、その石は、かなり大きなものです。確かに、出丸といえども、かなりの広さがあるし、この石垣です。重要な場所だったのでしょう。尚、出丸の東の方にも大堀切があり、そこまでが城域のようだが、時間的なこともあり、省略した。
93石垣

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