本丸と二の丸の境の高石垣
松浦党発祥の城、文禄の役に備えて織豊系の城へ大改修
読み方
かじやじょう
別名
勝谷城
所在地
長崎県松浦市今福町東免字城山
【アクセス】
佐賀県側から国道204号線を西進(勿論、平戸側からだ東進)し、今福町へ入ると、「松浦党発祥の城」へと誘う看板があるので、それに従って入って行く。約2キロほどの山道をあがっていくが、だんだん細くなっていき不安になってくるが、構わず終点まで行くと城跡(二の丸跡)の駐車場へ辿り着く。駐車場スペースは充分です。
形状
山城(標高197m)
現状
【現状】 城山(県指定史跡)
【遺構等】 曲輪、石垣、天守台、大手虎口、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2012/11/11
歴史等
松浦氏は、平安時代末期に源頼光の四天王の一人・渡辺綱の裔源久(みなもとのひさし)が松浦地方に検非違使に任ぜられ下向して松浦姓を名乗ったのが始祖とされる。
梶谷城の築城年代については、延久元年(1069)、嘉保2年(1095)、久安元年(1145)などの諸説があるが、久が築いて居城し、上下松浦地方に所領を拡げていった。
松浦宗家は、その後、拠点を時代と共に武辺城、大智庵城、唐船城、飯盛城と移して、梶谷城は本城から支城となるが、この間松浦宗家の有力な支城であり続けた。
永禄6年(1563)から永禄9年(1566)までの、平戸城主松浦隆信による松浦宗家の本城・飯盛城攻めの繰り返しの結果、松浦宗家は、隆信の次男九郎親(くろうちかし)を17代当主として養子に迎え、事実上の降伏をした。それ以降、梶谷城も平戸松浦の支城となった。
その後、梶谷城は、文禄の役(1592~)に備えて対馬・隠岐・平戸を結ぶ要衝として秀吉の命により改修された。
そして、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。
『「日本城郭大辞典(新人物往来社刊)」、「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「佐世保戦国.com」、「現地説明板」他参照』
現況・登城記・感想等
梶谷城は、松浦湾を見下ろす標高約197mの今福城山(いまふくじょうやま)に築かれている。
松浦氏始祖久による築城とはいえ、秀吉の朝鮮出兵を想定して大改修しただけに、総石垣造りの城であったようだ。
城の縄張りは、山頂部を楕円形に削平して本丸とし、南側に一段高くなった天守台跡がある。周囲は石垣で囲まれ、西側に本丸大手枡形虎口が設けられている。
眺望が開けている東西2ヶ所に櫓台を設け、大手口の南側の西櫓は、大手防備を兼ねている。
本丸の北側には、一段低くなった二の丸が配置されている。二の丸も石垣で固められ、本丸との境には長さ18m、高さ5mの打込みハギの石垣が残っている。
天守台をはじめ、石垣の大部分は「破城」により、かなり破壊されているが、所々に石垣が残っており、なかなか見応えのある城址だ。
また、本丸や二の丸跡から見下ろす松浦湾の眺望は素晴らしい。
(2012/11/11登城して)
ギャラリー
梶谷城縄張り略図(現地説明板より)
二の丸跡
車で約2キロほどの山道を登ってくると、だんだん細くなっていき不安になってくるが、構わず終点まで行くと城跡の駐車場へ辿り着く。ここは既に、二の丸跡で、南側には本丸との境目の高石垣がある。この高石垣は、高さ約5m、長さ約18mある。
本丸・二の丸の境の高石垣
石垣は、打込みハギで築かれた、なかなか見事なものです。
二の丸からの眺望
二の丸から見下ろす松浦湾の眺望は素晴らしい。
西虎口周辺の石垣
遊歩道を左回りに歩いてくると石段があり、下りてくると西虎口へ出る。写真手前へ下りる道もあったようだが、現在は危険なため進入禁止になっていた。大手口へは、写真中央辺りを右へ曲がって行くようになっている。
大手道
左手に崩れ去った石垣を見ながら進むと、左上へ登って行く石段が見えてくる。大手門へ通づる道である。石垣の多くは崩れているが、文禄の役に備えて、総石垣造りの城に改修されていたようだ。
西櫓台跡
大手口の南側の藪の中に、ちょっとした看板が見えたので寄って行って見てみると「西櫓台跡」とあった。現在は、雑木や藪で遮られているが、往時は眺望が開けていたのでしょう。
大手門跡
大手口は枡形虎口になっており、写真右へ曲がって入城することになる。正面奥には、本丸と二の丸の境の長い石垣が見える。
本丸南下の腰曲輪
本丸
本丸は山頂部を削平し楕円形をしており、南側に一段高くなった天守台が築かれている。
礎石
本丸跡には礎石様の石垣が確認できる。
東櫓台
本丸の東端には東櫓台跡が。ここからの眺望は素晴らしい。
天守台
天守台の石垣は、かなり大きな石が用いられていたらしく、破城による大きな石が転がっている。
本丸から松浦湾を見下ろす
本丸からは、松浦湾が一望のもとに見渡せ、秀吉が文禄の役にあたって、この城を大改修させたのも理解できる。写真左下は、本丸と二の丸の境の石塁。
二の丸東部分
案内板の縄張略図によると、二の丸の東部分には竪堀があるようなので、見に行ったが、強烈な藪だったので、諦めて戻ってきた(/。ヽ)。
城跡の西下の石塁
城の西側50m下位には山際にそって長さ200m、幅40mにわたって館跡があり、石壁・石塁・門などが残っている。