日出城天守台石垣
秀吉の妻ねねの甥・木下延俊が築城、城下海岸の「城下カレイ」が有名
読み方
ひじじょう
別名
暘谷城(ようこくじょう)
所在地
大分県速見郡日出(ひじ)町二の丸
形状
海城
現状・遺構等
現状:日出小学校他
遺構等:天守台、石垣、堀、移築現存櫓、曲輪天守台、石垣、堀、曲輪、移築現存隅櫓(日出町内仁王地区)
満足度
★★★★☆
訪城日
2006/07/27
歴史等
慶長6年(1601)、豊臣秀吉の妻 ねねの甥、日出藩(ひじはん)初代藩主・木下延俊は姫路より移封入国すると直ちに築城にかかり、翌年8月には大方が完成して入城した。 城の縄張りは義兄細川忠興が行い、石垣の構築は家臣で築城の名手 穴生理右衛門(あのうりうえもん) が野面積で築き、木材は 鹿鳴越(かなごえ)の大木を用いたといわれる。 天守閣は三層で二層の櫓(やぐら)5ケ所と平櫓1ケ所があり小城ながら堅城であった。3代藩主木下俊長が 中国古書淮南子より引用して 暘谷(ようこく)城と命名した。
明治7年(1874)城内の建物が取り壊されたが、 隅櫓は売却され、町内仁王地区に残っている。
本丸下の海岸は俗に城下海岸と呼ばれ、眺望が素晴らしく、大分県100景、別府8景の一つに指定されている。この海中の真清水が湧く一帯は「城下かれい」の名で知られるマコガレイの棲息地になっている。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
食い意地が張っていることにかけては誰にも引けを取らない私にとって、日出城といえば、当然頭に浮かぶのは「城下カレイ」であり、まずは城見物の前にお店に入ったが、予約をしなかったこともあり、相当な時間が掛かるとのこと、泣く泣く諦めた。
さて城址であるが、小藩のことでもあり、それほど期待していなかった。ところが、期待を大きく裏切った? これほどまで石垣が残っているとは思わなかったし、これほどの高石垣があるとも想像していなかった。
小学校の敷地になっている本丸を中心とした曲輪の周りの石垣が良く残っている。特に、南の海側(腰曲輪一帯が公園になっている)から見る天守台をはじめとする本丸の高石垣が見事であった。(2006/07/27登城して)
ギャラリー
日出城跡周辺の絵図(現地案内板より)
日出城絵図(現地説明板より)
大手門跡
小学校の校門のところが大手門跡
着見櫓跡
今では櫓台上には、小学校体育館が建っている。
本丸北西隅(着見櫓下)の堀
本丸北東(二の丸との間)の堀
本丸石垣
苔むした石垣がなんともかっこいい。
本丸東側の堀
この辺りの堀や石垣も良好に残っている。
本丸東下の帯曲輪
このカーブした帯曲輪の上下の石垣が何とも言えずかっこいい。
時鐘(東門横)
3代藩主・俊長が元禄8年新たに鋳造させ、外大手門付近の土居に懸け、毎日12刻の時を知らせた。明治7年、本丸櫓取り壊しののち、現在地に移され、鐘楼も平成2年新しく造り替えられた。
天守台
海(南)側から見たもの
望海楼への石段①
望海楼への石段②
望海楼跡から城下海岸を
正面に薄っすら高崎山が見えたが、写真には無理か?